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新緑の関ヶ原古戦場をゆく 石田三成はなぜ負けたのか、不思議だった

Image202  大型連休中の最後、好天の日曜日、のんびりと、岐阜県関ヶ原町の

 410年前の古戦場

をハイキング気分で出かけた。田植えの季節だったが、戦場となったこの地域一体は、今も400年前の当時ののどかな風景だった。かつて、徳川家康を総大将とする東軍、石田三成を総大将とする西軍、合わせて15万の兵力が激突したとはとても思えない静かなたたずまいだった。

 西軍の本陣のあった笹尾山に登って見ると、さすがに地元出身の石田三成だけあって、戦場を一望できる見晴らしのいい場所に陣取った。兵力もほぼ互角だったというから、断然、三成の西軍が最初から有利な体勢を整えていたらしい。

 解説パンフレットも

「開戦当初、必勝の陣形で西軍が圧倒的に優勢に」

となっている。手前味噌ではなく、後の明治政府の軍事顧問だったドイツのクレメンス・メッケル少佐など軍事専門家の意見も「山や丘を押さえた見事な陣形」を賞賛している。

 なのに、石田三成の西軍は最終的に負けている。

 なぜだ

ということになる。実は、ブログ子は、若いころに買い込んだが、ほとんど読まなかった

 『真田太平記』全16巻

を読破中で、4月には関ヶ原の戦いの部分を読んでいたので、今回の小旅行となったのだが、この中で、西軍に味方した戦上手の真田昌幸・幸村も、

 なぜ、負けるはずのない戦いに、負けたのか

と何度も嘆いている。これでは死に切れないというわけで、小説は続くのだが、普通は、この西軍敗北、東軍家康の勝利は、戦いの終盤で、

 どちらに味方するか、松尾山山頂で形成をうかがっていた西軍の小早川秀秋が徳川方に、密約どおり、裏切ったからだ

と説明されている。歴史教科書に、そう書かれているものもあるようだ。

 しかし、それは戦いが始まって5、6時間もたっていた午後の段階であり、それまでに、いくらも、戦場のど真ん中に本陣を構え、移動していた家康を急襲する機会はあった。それがなぜ、行われなかったのか。

 一言で言えば、三成の戦下手

ということなのだろうが、西軍を心ひとつにまとめ切れなかったことにつきるともいえそうだ。兵力の減少を恐れて、西軍を徳川撃破に向けて先鋭化しなかったことが、つまり、純化しなかったことが兵力では互角であっても、戦闘能力を逆に弱めたのではないか。

 その点、家康の軍の純化は徹底していた。それに加えて、大垣城での城攻めで開戦しそうになったのを、謀略情報で西軍を関ヶ原に誘い出した戦略の効果が大きい。なにしろ、家康は野戦が得意であり、城攻めは苦手だったからだ。家康は、自分の土俵で相撲をとるように仕向けたのである。

 あれや、これや、考えると、

 総括的に結論付けると、

 チャンスは放っておくと、必ず逃げていく。しかし、ピンチは放っておくと、必ずやっておく。

 これは、秀秋裏切りの前に、なんども勝つチャンスのあった石田三成に当てはまりそうだ。裏切りはチャンスを何度も放置した三成に対する最後の一押しだったのに過ぎなかったように思う。裏切りが西軍勝利の決め手だったという見方はたぶんに一面的だ。

もうひとつ、

 幸運な成功はある。しかし、不運な失敗はない。失敗には必ず合理的な理由がある

ということだ。

 家康にとっては、関ヶ原の戦いは幸運な勝利であった。何度も訪れたピンチを放置せず、そのときそのときに、本陣を移動するなど適切に処理、叱咤している。三成にとっては、作戦の合理的な理由を見つけて、すばやく修正する機会を放置したから、敗北を喫したように思えた。

 これを一言で言えば、三成の戦下手

ということになろう。

 春の日差しの中をのんびり、歩いてみて、そんな気がした。

 浜松に帰り、JR浜松駅構内の遠州濱乃屋で

 しぞーかおでん790円

とともに、生ビールつきの「ちょい飲みセット」890円

で一日の疲れを取りながら、旅の思い出を反すうしながら、

 歴史小説はこうした小旅行をはさんで読むと、いっそう、リアル感が出て楽しみが倍増することを実感した大型連休だった。2011.05.09

 

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