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明治以後、繰り返し三陸を襲った大津波  「想定外」は通用せず

 最近なくなった作家、吉村昭さんのドキュメンタリー小説とも言うべき作品に

 『三陸海岸大津波』(文春文庫)

というのがある。明治29(1896)年と昭和8(1933)年に三陸を襲った大津波についての

 貴重な証言・記録

を発掘している。海底地震が原因だが、これによると、明治29年6月の大津波の平均の高さは

 10メートルとも15メートル

とも言われている。今回の東日本大震災の津波の高さも、本地震の震源に近い

 宮古=8.5メートル以上

 大船渡=8.0メートル以上

 相馬=9.3メートル以上

であるから、明治29年の大津波と同程度であろう。吉村さんの調査によると、

 「海上の不気味な大轟音に驚愕した人々は、家を飛び出し海面に眼をすえた。そこには飛沫をあげながら突き進んでくる水の峰があった」

というから、今回の大地震と似たような状況が記録されている。

 「すさまじい轟音が三陸海岸一帯を圧し、黒々とした波の壁は、さらにせり上って屹立した峰と化した」

 そして、

 「波は、すさまじい轟きとともに一斉に崩れて村落におそいかかった」

という。

 人的な被害は、宮城県内だけで死者3452人、岩手県内ではさらにひどく、死者22565人にも上った。今回の地震・津波の人的な被害は死者=約13500人以上、行方不明=約14500人以上だから、明治29年の大津波は死者数は、今回を上回ることになる。

 こんな大被害が、わずか115年前に起こっていたことを、私たちは忘れていたのである。そして、わすれることにより、

 「想定外」

という言葉を安易に、しかもこともなげに使ってしまったのだ。

 明治29年6月の大津波について、きちんと語り継がれていれば、

 軽々しく「想定外」

という言葉を使うことはなかったであろう。

 それどころか、三陸海岸には、

 昭和8年3月にも大津波が押し寄せていることが、同じ吉村さんの同著に、津波被害区域図、住民の証言など津波被害について詳細に記録されている。

 地震や津波の体験を語り継ぐには、子供たちの役割が大事だ。その体験を次世代に伝えてくれるからだ。吉村さんの著書には、そうした「子供の眼」から見た津波の恐ろしさが多く収録されているのは貴重だ。

 著者のあとがきにも

 「昭和8年の津波については、田老町で貴重なものを見つけた。田老尋常高等小学校生徒たちの作文集であった。子供の鋭敏な眼に津波がどう映ったか、興味をいだいたが、読んでみると、予想通りのすぐれた作文ばかりで、しばしば目頭が熱くなった」

と書いている。語り継ぐ貴重な文集だ。今回の大震災についても、こうした文集づくりをして、津波や地震の恐ろしさを忘れないで次の世代に警告するための貴重な手立てにしたいものだ。

 注目したいのは、この津波が襲ってくる前には、井戸水の水位の変化、濁り、枯れなどの

 前兆現象

があったという記録が多数収録されていることである。

 さて、三陸海岸では、明治29年の大津波の二年前、明治27年にも、また、明治元年にも、安政3年にも、津波が押し寄せている。

 今回、こんな大津波は想定外という言い方が、関係者、地元住民の間からしばしば聞こえてくるが、決してそうではないことを、吉村さんのこの小著は教えてくれたように思う。2011.05.13

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