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科学版「藪の中」 井上靖「氷壁」を読んで

 麻より丈夫で切れないはずのナイロンザイルがどうして切れたのだろう。実際に起きた事件をモチーフに、そのなぞに迫る井上靖の

 小説「氷壁」

を、秋の読書週間以来、この一か月、土日の休日に読んできた。いかにも、新聞記者だった井上さんらしい着想だ。30年以上前の若き日に読んだときには、気づかなかったが、読み終えて、ふと気づいた。

 この小説は、科学版「藪の中」だ

 「藪の中」は芥川龍之介の有名な、そして発表後、さまざまな論議を呼んだ短編。妻が盗人に犯されるのをただ見ていただけの情けない夫の武士が、事件後、死んでいた。自殺か他殺か、それとも偶然か、関係者がそれぞれ自分の立場から証言するが、ばらばらで死因の特定ができずに小説は終わる。

 井上靖さんは、この作品をヒントに、当時の黒澤明監督が「羅生門」で描いたように、「氷壁」を書いたのではなかったかと思ったのだ。この映画公開の5、6年後にこの小説は発表されている。誰も見ていない「藪の中」を同じく誰も見ていない冬の前穂高東壁に事件の現場を置き換えたのだ。

 このような作品になったのは、井上さんが、文学者となる前、高校は金沢のナンバースクール四高、しかも「理科甲類」に入学しているからだろう。大学は京都帝大文学部。こうした井上さんの文系、理系の経歴が、「氷壁」を書かしめたのではないか。

 ザイルはなぜ切れたのか。

 小説の中のその実験でわかったことは、実験で仮定した条件の下では、当時の定説どおり、ナイロンは麻よりも丈夫ということだけである。実験結果は、その丈夫なナイロンがなぜ氷壁で切れたのかという疑問の回答とはならない。それは論理の飛躍である。

 もし、仮に氷壁で麻とナイロン両方を同じ状況下で使っていて、ナインのほうが切れたとなれば、それは実験結果と矛盾する。この矛盾を解決する解釈は、設定した実験条件そのものが正しく現実の氷壁を反映していないか、たとえば、実験に使った岩角の先端が人為的に丸みを持たせたというよう場合(故意の欠陥隠し)か、反映しているとすれば、ほかの要因、たとえば事故にかわった主人公、魚津恭太らの人為的な操作ミスの可能性が高いということになる(過失か自殺)。

 小説では、こうした科学的な実験結果を受けて、関係者が、その立たされた立場を反映して、あるいは心理状態を反映して、さまざまな推測を語り合うという形で展開する。

 まさに現代の「藪の中」である

 小説のモデルとなった事件は、朝日新聞に連載が始まる2年前の昭和30(1955)年1月に実際に起きている。その後、さまざまな実験や取り組みを通して、

 ナイロンザイルに対する国の安全基準がまとまるのは、事件から21年後の1977年

 鋭く尖った先端になっているというような岩角の特定の条件下では、強いはずのナイロンザイルは容易に切れることが、事件関係者の執念によって確かめられたのだ(昭和63年9月3日付朝日新聞=昭和にんげん史 切れたザイル)。

 この記事の見出しには

 「岩角に触れブッツリ」

とある。この基準により、ようやく、「藪の中」だったものが、明らかになった。藪の中で何が起きたのか、その真実を明らかになった。その真実を踏まえて、安全対策を講ずるにはやはり、時間となによりも、関係者の執念が欠かせなかったようだ。それにしても、

 いち早く事件の問題点の核心に迫り、小説化にしたのは、ジャーナリスト、井上靖の面目躍如であると強く感じた。井上靖は、立派なジャーナリストなのである。

 読書百遍と言われるが、この読書によって、再読の効用を知った。2010.11.20

 追記

 井上靖自身は、この事件を取り上げるきっかけについて、事件の翌年、昭和31年夏にまとまった「ナイロン・ザイル事件」という遭難者を出した岩稜会メンバーによる調査報告書が同会から送られてきたことだと述懐している(『わが文学の軌跡』(井上靖、1977年)。これに対し、ナイロン・ザイルメーカーの実験(事件の年、昭和30年春)では、ナイロンは切れないという結果を公表していた。同会が主張する「切れた」という事実は間違いないという同会の正しさを、同会の関係者との面会を通じて、信じることができると感じて小説化したという。このことが明らかになるのは、安全基準がまとまったのを受けて、岩稜会があらためて、1977年に再編集した「ナイロン・ザイル事件報告書」によってである。事件から、21年もたっていた。

 この新聞小説は、連載当時、批評家からはそれほど反響はなかったが、一般読者からは大きな反響が当時あったらしい。そのため、小説では、慎重を期して、はっきりとどちらの主張が正しいか、という白黒決着させるような悪玉・善玉構成にはしなかったようだ。

 これらを含めて「氷壁」論についての詳細な研究は

 「井上靖研究序説」(武蔵野書房、2002年)

に詳しい。ただ、この研究では、このブログの最初に取り上げたような

 科学版「藪の中」

という見方はしていない。孤独と信頼というのが小説のテーマだったように分析されている。この点が小生にとっては、物足りなかった。藪の中かどうかは別にして、真相に迫る、理系人間、井上靖という側面からの分析がほしかった。この側面がなかったら、いくら岩稜会から報告書が送られてきても、理系ジャーナリストとしての井上氏の食指は動かなかったであろう。

 ちなみに、龍之介の「藪の中」については、ウィキペディア百科事典によると、いままでに100編以上の論文が書かれているが、いまだその真相について一致した結論は出ていない。この点は、科学版「藪の中」は時間はかかったものの、一定の結論は出ている。この点が、科学版の特徴だろう。

  最後に、もうひとつ。井上靖氏は、今、小生が暮らしている浜松で小中学校時代(浜松一中)を過ごしたというのも、今回、初めて知った。

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