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2010年6月

人類が消えた日 その後、地球はどうなるか

 最近は、サッカーW杯の話ばかりで、テレビは盛り上がっているが、そんな中、

 人類ZEROの未来 ! 人間が消滅後の世界を最新科学で検証映像化

という番組を見た。1億年先まで衝撃再現 2億年後には進化した高知能イカも、というのだから、ついつい見てしまった。

 結論的には、数百年後には、ドバイの高層ビルも塩害で倒壊、自由の女神も、エッフェル塔も崩壊するなど、世界の都市は植物に覆われて崩壊するというものだった。米研究者も登場し、いろいろ説明してくれた。

 以下は、私の見解。

 そもそもある日、突然、人類がいなくなるということは、あり得るか。あり得る。たとえば、大気中に生息してはいるものの、今まで繁殖しなかった猛毒のウイルスが、温暖化で急速に繁殖、人類に一気に感染、数週間で人類が滅亡するというような場合が考えられる。

 それはともかく、人類が消滅して一番困るのは、人間が創り出した

神さま

だろう。もはや、だれも神を信じてくれるものがいないのだから。もう一つ、人の頭にだけ寄生するシラミだろう。この二つは、人間の消滅と共に、死滅する。これだけが大きな変化だろう。

 というのは、人間の消滅で大きな影響を受けるのは、地球のほんの表面だけである。それも、陸地だけである。地表の海はほとんど何の影響もなく、人間が消滅したことなど何ひとつ知らず、これまで通り、生き物は進化していくであろう。陸地にしても、ごくごく表面だけで、深い地下の生物はまったく関係がない。バクテリアはこれまで通り、地下を支配し続けるであろう。

 空。鳥は人間がいなくなったなんて、知りもしないだろう。

 地上表面の陸地の、それも都市部が数万年前、あるいは人類が歩んできたのと同じくらいの時間、数百万年前の原始の時代に戻るのだろう。このころには、さすがのピラミッドも消滅しているだろう。それとも海底に沈んでしまうか。

 ただ、ちょっと勘違いしそうなのは、原始に戻ると言っても、都市部が樹木などに覆われ、地上からその痕跡をなくしていくという意味であり、生物の進化はこれまで通り、人類がいなくなっても、数十億年続くであろう。人類が誕生するまでに、数千万種の種が生まれ、そして同程度、絶滅していった。人類がいなくなると言っても、数千万種のたった1種にすぎない。地球にとっては、これは大したことではない。それでも人間にとっては衝撃的な出来事かもしれないが、時間的に見ても、地球上の生物進化の長い長い歴史からすると、人類の歴史の時間はほんの一瞬の出来事に過ぎない。

 地球の歴史50億年に比べると、人類500万年というのは、わずかその1000分の1に過ぎない。地球史を1年にたとえると、人類史は8時間程度なのだ。文明の時間にすると、そのまた1000分の1、つまり、ほんの30秒程度なのだ。

 たいていの人は、人類がいなくなった世界は荒涼としたものを想像しがちだ。番組に登場した研究者もにたような想定だった。しかし、進化は、人間に向けて突き進んできたわけではないから、今後の進化では、人間には想像もできない高度な知性を持った生物が今後、数百万年の間に登場しないとも限らない。

 かれらは、かつて、この地球上にホモ属という属があり、ホモハビリス、ホモエレクトス、ホモサピエンス(今の人類)という種が存在したことさえ知らないかもしれない。あまりに細かい話だからだ。

 それはちょうど、この地球を、いや、この全宇宙を支配している生き物がバクテリアであると、人類が気づいていないように。

 なお、以下のような面白い本が出ている。

 「人類が消えた世界」(アラン・ワイズマン、早川書房、2008年)

 この本でも、人類が消えると、500年後にはニューヨークの都市はオークやブナの森に覆われ、野生動物たちが生息するようになると分析している。2010.06.29

 

 

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世界サッカー界のオレンジ革命 ヨハン・クライフ氏が語る

 サッカーW杯の1次リーグ突破を決めたデンマーク戦に3:1で、日本が勝ったときの早朝の号外「中日新聞」が面白かった。日本代表チームの一人がこんなことをコメントしていた。

 「うれしいが、思っていたよりもなぜか喜べない。目標はまだはるか先にある。優勝と日本国民の前(記者会見)で公言しているので、一歩一歩、不可能はないと証明したい」

というのだ。さすがに、決勝Tでベスト4入りすると公言していた岡田監督らしい発言だと関心する人も多いだろう。しかし、この発言は、実際は本田圭佑選手(FW)のものだ。小生も、ゴールネットの近くで実際にこの発言を引き出したインタビューをテレビ中継で拝見したが、確かに、そんな趣旨の感想をむしろ淡々と話していた。

 じゃあ、岡田武史監督はどんなコメントだったかというと、

 「選手が集中を切らさずに頑張ってくれた。これがまず最初の目標。ある意味、ほっとしている。次はかなり強い相手なのでチャレンジしないといけない」

となっていた。小生、このインタビューを直接中継で聞いてはいないが、本田の発言に比べて、日本代表監督としては、さびしいという印象を受けた。「勝って兜の緒を締めよ」の心境かもしれないが、勢いも大事にしたい。これでは、どちらが、監督かわからない。優勝を目指す選手と、ベスト4を目指す監督の違いか。

 強豪ぞろいのヨーロッパ予選を勝ち抜いてW杯に出場してきた優勝候補の一角、デンマークに圧勝したのだから、もっと力強い、そして常識を破るぞと国民や選手にアピールするような、監督の挑戦心がほしかった。名将の必須条件だ。

 次の決勝Tまでしばらく時間があるようなのか、NHK日曜日午前のテレビ番組で、

 世界サッカー界の常識を破ったオランダの

 オレンジ革命(1970年代)

について、その立役者、ヨハン・クライフ氏(オランダ人)がインタビュー応じていた。オレンジとは、オランダ代表のチームカラーらしい。

 同氏を中核とするオランダは、それまでの役割の決まった「退屈なゲーム運び」を「トータルフットボール」、つまり、

 全員守備、全員攻撃、試合中のポジション・チェンジ

という攻撃的な試合展開にサッカースタイルを変えた。当時のブラジルなどの強豪に圧勝して、サッカーの常識を打ち破り、今のようなスタイルに近いものを確立したという。

 「小国が試合に勝つためには賢くなければならない」

 「退屈な勝利よりも、美しい敗北を」

とも語っていた。いかにも、当時、華麗なプレーで「飛ぶオランダ人(フライング・ダッチマン)」とも呼ばれた人らしい言い方だ。勝つことは大事だ。同時に、試合中のポジション変更など常識を破るゲーム運び、相手をオフサイトに誘い込む巧妙な戦術といった当時の監督の「見ていて楽しい攻撃的なプレー」を体現して見せるのもサッカーの醍醐味であり、欠かせない。

 これに対し、本田選手は共鳴することだろう。しかし、果たして、岡田監督はこうした「美しい敗北」をしてでも、攻撃的なプレーに挑戦する余裕があるだろうか。

 南アフリカの大会では、どの国も守りの試合を徹底させているという。そんな中で、岡田ジャパンが、ベスト4入りの試金石、つまり常識を破る攻撃的な試合をみせてくれるかどうか、決勝Tではこの点をじっくり見てみたい。2010.06.25

 追記

 最近、少し暇になったので、分厚い

 『DARWIN    世界を変えたナチュラリストの生涯』 Adrian Desmond & James Moore

という浩瀚な2巻本(総ページ1000ページ以上)を読み終えた。原著は1991年発行。翻訳本は、工作舎。ダーウィン伝の世界的な教科書との評価があるが、著者にはその後、

 『Darwin'Sacred Cause』(2009年)   翻訳「ダーウィンが信じた道 進化論に隠されたメッセージ」(NHK出版)

がある。「種の起源」執筆の動機は、当時イギリスで盛んになっていた人種差別撤廃、奴隷制廃止運動への科学的な根拠提供であったと執筆動機を明らかにしている。

 浩瀚な『ダーウィン』伝には、この点について、明示的に語っているのは

 「奴隷制への嫌悪感」(p317)

という2ページ足らずのセクションだけであるのには、驚いた。

  果たしてダーウィンの動機が、奴隷制廃止運動の一環であったかどうかは、これだけではなんともいえない。しかし、当時の、つまり、今から200年前から廃止運動が盛り上がっていたことは、たとえば、

 英で進む奴隷制の検証 ダーウィン、ディケンズも関与(2010年3月4日付毎日新聞夕刊)

の富山太佳夫青山学院大教授(英文学)の記事に詳しい。英国で奴隷貿易など奴隷売買が禁止されたのは、ダーウィンが生まれる2年前の1807年。奴隷制そのものが大英帝国内で禁止されたのは、ダーウィンがビーグル号航海から帰国して2年後の1838年。帰国の翌年、1937年春には、もうダーウィンは秘密の「レッドノート」(ノートB)に、生物起源の単一説、つまり系統樹を記録し、考察している。

 航海に出る前には、種の変化に対して、懐疑的、あるいは否定的だったダーウィンは、5年の航海後帰国してすぐに、種は変化するということを確信していたらしい。問題は、どのようにしてというメカニズムだった。そして、航海中にアフリカ、南米で見てきた悲惨な奴隷たちの実態を知っただろうから、そこから、強い奴隷制度廃止に向けた科学的な根拠づくりを始めたらしいことは想像に難くない。

 つまり、まず、人間を除いた生物一般について単一起源説を考察し、その反響を見ながら、人間の単一起源説(人種はみな同じ起源、血のつながりがある)という大変に宗教的に危険な考え方に踏み込んでいったと言うことだろう。

  こうした考え方について、まだ遺伝物質やその遺伝法則が知られていない時代に考察し、大筋正しい結論を導き出したのは驚異的であり、それを可能にしたのは育種家としての長い観察実験経験があったからであろう。さらに、種の変化の元、つまり、突然変異すら知られていなかった時代でもあり、ダーウィンの悪戦苦闘は並大抵ではなかったであろう。個体に発生した突然変異が、繁殖を通じてどのように種内に広がっていくのかの解明は、20世紀の集団遺伝学が受け継いだのである。

 多数の手紙類やメモ類を丁寧に整理してまとめられた今回の浩瀚な伝記は、奴隷制廃止に向けた科学者としての動機もさることながら、考察結果を公表するにはよほどの勇気が当時必要だっただろうことを語ってくれた。2010.06.27

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南アフリカは虹の国 ? サッカーW杯の熱狂の中で

 今夜深夜というか、明け方、注目の

 日本 対 デンマーク

のサッカー試合がある。予選リーグを勝ち上がるかどうか、日本の最初の正念場だ。ところで、連日、

 南アフリカは、「虹の国」

と放送されている。ワインのうまい国でもあるらしい。初代大統領の黒人、マンデラ大統領の就任演説に、将来、虹のようなそういうすばらしい国になるだろうという希望的観測の文脈の中で、出てくるらしい。

 しかし、現実は、とてもそんなものではない。暴力と犯罪にあえぐ泥沼の国だろう。

 そんな南アフリカの実態を伝えているのが、

 「ルポ 資源大国アフリカ 暴力が結ぶ貧困と反映」

というジャーナリストの白戸圭一氏の近著だ。確かに、金やダイヤモンドの世界的な生産国ではあるが、少女を美人コンテスト出場のうたい文句で集めて、南アフリカの都会で売買する男たち、成田に麻薬を運び込む女、出稼ぎに越境してくる若者を誘拐し身代金を要求する犯罪集団、石油資源に群がる企業幹部など、無法地帯のような紛れもない現実を描いていて衝撃的だ。この国を含めてアフリカで真っ当に生きるのは容易ではないことを痛感する。

 最近では、NHK特集番組でも資源大国に絞って

「アフリカン・ドリーム」

を声高に叫ぶような紹介の仕方をしている。果たして正鵠を射ているかどうか、とても判断できない。犯罪すれすれの離れ業で築く、ごく一部の人々のドリームではないか。

 この本で語られているのは、南アフリカばかりではない。繁栄し始めた南アフリカでのW杯の熱狂が過ぎ去れば、こうした現実も忘れ去られていくのが心配だ。2010.06.24

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免疫学者、多田富雄の最後の言葉 寛容と排除の論理

 NHKの番組ニュースウオッチ9を見ていたら、

 障害者になった多田富雄さんの最後の言葉

というのを紹介していた。多田さんは、この4月に亡くなったが、最後はほとんど寝たきり状態だ。そんな世界的な免疫学者がどんな言葉を最後に残したのか、耳を澄ましていたら、

 「長い闇の中にも希望が見えます。寛容の世界です」

というものだった。免疫でいう、異物の「非自己に対しても寛容がある」ことを人間世界に当てはめたものだろう。つまり、

 障害などを排除せずに共生する寛容社会という希望が見えてきた

というような趣旨のことを特殊な機械を通じて伝えていたように思う。

 免疫というと、とかく、異物に攻撃を仕掛ける

排除の論理

ばかりが、紹介されるが、これがすぎると自分の体自身を破壊することにもつながる。そこで、これを適当なところで排除の論理をやめて、共生するということを免疫システムはとっているという。多田さんは、この事実を私たちの社会に当てはめたのであろう。

 排除の論理も、度がすぎると、その会社は破壊される

というわけだ。卑近なたとえで言えば、異物との共生が会社を健康なものにする。そんな教訓だ。これがなかなかできない。

 転職社会での企業側の、社員側の異物排除の論理にも通じるメッセージであろう。

  転職組の小生にとって、身にしみる言葉である。多田さん、ありがとう。

 今日、6月23日は、沖縄戦後65年、

 慰霊の日

である。あす、菅新政権誕生して初めての参院選公示。熱い夏が始まる。

 退職願い受理の日、2010.06.23

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サッカー、本田圭佑24歳の名言 「謙譲は自信のなさなり」

ワールドサッカー(南アフリカ大会)、リーグ予選でオランダに

1 対 0

で負けた日本代表。初戦のカメルーン戦では、MFの本田圭佑の1点で勝利したのだが、これで、正念場のデンマーク戦が見ものだ。本田選手(24歳)は、日本代表入りの会見で、

 出るからには目標は優勝だ

と「豪語」していた。本当に優勝するつりだと言うのだ。

 そんな本田選手のドキュメンタリーをNHKが「スポーツ大陸 すべてはW杯のために」、日曜日の午前に放送していた。大阪府出身で、星稜高校サッカー部で活躍し、名古屋グランパスエイトに入団した本田の印象を一言で言えば、

 自分の力を信じる物怖じしない若者 

と言うものだった。猛練習に裏打ちされた自信から出てくる明るい信念を持った選手という印象だ。

「謙譲は、国際社会では、自信のなさと受け止められる。主張し、目立ち、アピールする、これだ」

「俺が今日の試合を引っ張るという気概がなければ勝てない」

 こういう背景には、

「厳しい環境に身を起き、自分を鍛える。それが自分の将来につながる」

という彼なりの人生訓があると放送で語っていた。父親の影響だろう。

 だからこそ、VVVフェンロ(オランダ)で「皇帝」とまで言われ、主将を務めていたにもかかわらず、あえてたった一人で

 CSKAモスクワ

に移籍する。オランダでは入団してすぐ2部に降格、本田の活躍で再び1部に昇格という主将として劇的な働きをして、その真価をオランダ国民に認めさせた直後である。そこで満足しない。そこを抜け出し厳しい環境、モスクワに身をおくということを自ら実行して、今回の日本代表をつかんだのだ。この大会が終われば、きっと本田選手は

 イタリアのセリエA

で活躍するのではないか。そんな気がしてきた。岡田監督も、ここに来て、彼の活躍を期待するもの無理はない。

  本田選手は、かつてのMFの中田英寿とは少し違う「日本人らしからぬ日本の若者」だ。デンマーク戦、どんな戦いを見せてくれるか、楽しみだ(24日木曜日深夜=25日午前3時30分試合開始)。

 思うのだが、日本で本田選手がこれほどもてはやされるのも、日本人、特に日本の若者に彼のような挑戦する人材がいないからだろう。嵐がすぎるのを塹壕に籠もりひたすら過ぎ去るのを待っている若者が日本に多いことをワールドサッカーは教えてくれたように思う。

  追記

 挑戦心だけではない。中田にしても、本田にしても、英語など語学に強いのも、挑戦心を前に押し出す大事な要素のような気がする。ゴルフの石川遼選手も英語に強いのが国際試合で物怖じしない積極果敢なプレーをするひとつの要素になっている。

 こうしてみてくると、

 このごろの若者はすごい。それに比べて、老人は何をしている。

といいたくなる。2010.06.20

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映画「マディソン郡の橋」 テレビドラマ「同窓会 ラブ・アゲイン症候群」の結末

 黒木瞳と色の浅黒い高橋克典主演のテレビドラマ「同窓会 ラブ・アゲイン症候群」のラストについて、このブログでその印象を書いた。

 ラストは、黒木瞳と高橋のダブル不倫を、互いに離婚を決意し、互いに生活を共にすることを本当に実行するかどうか、一年後のこの橋、この時間に再会し、その結果を持ち寄ろうとして分かれる。考える時間は1年後。

 この日、この時間に現れたのは、黒木瞳。橋の真ん中で、高橋が来るのを待つ。そして、ふりかえる黒木の表情でこのドラマは終わる。その表情からは、高橋が現れたのか、はたまた現れなかったのか、黒木の表情からはあいまいにしている。視聴者の想像、あるいは期待に任せた、ある意味「ずるい」、ある意味「うまい」、ある意味「余韻を残す」作品に仕上がっている。

 井上由美子さんが脚本を書いているが、まさか、ダブル不倫を賞賛するようなテレビドラマは、渡辺淳一じゃあるまいし、女性ライターとしてはなかなか勇気がいる。文学的に見た完成度としても問題があろう。小生は、高橋は来なかったというほうにしたいと思った。いずれにしても、視聴者にいろいろ考えさせると言うのが、井上由美子さんのラストシーンの狙いではなかったかと感じた。

 このテレビドラマについて、

 月刊「北國アクタス」2010年7月号の連載エッセー「かさだかな日々」で、井上さんを尊敬するシナリオライターの水橋文美江( 46歳 )さんが、同窓会のメンバーと同じ世代ということもあり、

 「同窓会」はハマッちゃった 

と書いている。特に、黒木瞳の夫役、吹越満の演技が、このドラマの脇役たちに「妙な化学反応」を起こしたと、はまった理由を述べている。つまり、黒木・高橋のかっこよさよりも、脇役の化学反応がよいので、もはや黒木・高橋のダブル不倫の結末よりも、脇役たちの妙な化学反応に興味津々と、このエッセーで書いている。橋の上の最終回、ラストを見ていない時点での感想であるが、このドラマのラストをどう評価したか、気にはなる。

 ただ、このテレビドラマのラストシーンを見て、小生、大人の不倫映画

 「マディソン郡の橋」

をふと思い出した。カメラマン役のクリント・イーストウッドと、農家の主婦、メリル・ストリープのあの不倫映画だ。この映画の冒頭に屋根付き木橋が登場する。井上由美子さんは、この映画を十分に意識してラストに黒木を登場させたと思う。そして、それはおおむね成功していると思う。おそらく、シナリオ執筆中にはこのシーンはなかったのではないか。

 そう思うのは、まず、小生が歳を取ったからであろう。そして、中高年の「同窓会」の恐さ、危なさ、そして苛烈な結末を知っているからだろう。2010.06.20

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南アフリカ・ワイン「Tall Horse」で、韓国 vs アルゼンチン戦を観戦

 サッカーW杯、韓国が元気だというので、リーグ予選、

 韓国 対 アルゼンチン

を観戦した。世界中で人気の南アフリカ・ワイン「Tall Horse」という赤ワインを飲みながら見た。赤いキリンのデザインが美しい。

 予選リーグだったが、

 4 対 1

でマラドーナ監督のアルゼンチンが圧勝。さすがに、勢いに乗る赤い悪魔、韓国でも、アルゼンチンとなるとそう簡単ではなかったようだ。アルゼンチンでは

 メッシ選手

の強さが目立った。韓国の、いわゆる「自殺点」1というのも残念だ。

 追記 

 このテレビ観戦の合間に

 あさひテレビで、

 「同窓会 ラブアゲン症候群」

を見た。主役は、黒木瞳、斉藤由貴が出演していた。ラブコメディ風で面白いと言う印象だが、心揺さぶられる演技とストーリーだった。

 黒木瞳が出演しているというわけではないが、他人事ではない

という面白さだった。現実感がある。危ない。それにしても、

 この最終回、黒木ひとみの登場するラストシーン

は切ない。視聴者の心にいつまでも残る。

 この日、

 イングリッド・バーグマン/ハンフリー・ボガード初演のDVD「カサブランカ」

も見る。何度見ても、ラスト・シーンはいい。

 「僕にはパリの思い出がある」

私にとっては、生涯忘れることのできない言葉だ。2010.06.17

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続「地球温暖化スキャンダル」 なぜ消えた中世温暖期

 大量メール流出事件を暴いた

 「温暖化スキャンダル」(日本評論社、2010年6月)

を読んでいて、いろいろ調べた。その中で、1990年代後半の急激な温暖化現象、いわゆる「ホッケースティック」を示したMBH99論文の著者の一人で、温暖化警告派のK.ブリッファCRU副所長が

 「どうやら最近の高温は、1000年前といい勝負らしい」(1999年9月22日)

というメールを出していた(同著p6)。

 「ホッケースティック」の急上昇と同じような高温期がかつてもあったらしいことを認めているのだ。つまり、中世温暖期(西暦800年-1200年)の存在を認めているのだ。

 しかし、彼の論文を採用した2001年、2007年のIPCC報告書には、そうした温暖期間はなく(1991年の第一次報告書には概略を示す図があった !)、1990年代の急上昇は、これまでの歴史にはない劇的な変化として、これは大変だ、と人々の注目を集めた。ホッケースティックのマジックだ。

 さらに、いろいろ調べると

 確かに、日本でも、中世温暖期はあった。

 「科学朝日」1994年11月号

 特集 寒冷化と大化の改新

の中で、安田喜憲国際日本文化研究センター教授(環境考古学)が、同センターの北川浩之助手(同位体地球化学)による屋久杉の年輪の炭素同位体比を使った最新の詳細分析から分かった気候変動グラフ(この2000年間)が詳しく紹介されている。

それによると、過去2000年間の年間平均気温からの偏差は、+-約2度で、

 中世温暖期(800年-1200年、平安初期から鎌倉初期)には、全体の平均から+1度前後高い(この値は、ブリッファーの言うとおり、1990年代の数値とほぼ一致 !)

 これに対し、小氷期(1600年-1850年、江戸時代)には、全体平均から-1度前後低い

 こうした結果は、IPCC1991年報告書の概略図とほぼ一致する。

 つまり、今のような高温期は、なにも今回が初めてではなく、過去にもあった。このことは、警告派にも分かっていたが、これでは、1990年代の温暖化のすさまじさを如実にアピールするにはものたりないというわけで、たとえば、気温の代替指標と実際の温度計気温とをつなぐ際に、代替指標気温の「気温低下を隠す作業」などで「細工」をしたのではないか、と想像されるのだ。

 ともかく、IPCC報告書の信用はがた落ちであり、事実上、信用できない

ところまで来ているよな印象だ。こうなると、

 都市化に伴うヒートアイランド現象が温暖化にほとんど影響しないとの(CRU所長の)結論もあやしい

とならないか。すくなくとも、こうした事実の検証を急ぎ、こうしたことがまかり通ったIPCC査読制度を根本から見直すべきだろう。査読制度そのものが、きちんと機能していないことをうかがわせるのに十分な疑問が多すぎる。

 なお、日本だけでなく、世界中で中世温暖化があったとする著作には

 「千年前の人類を襲った 大温暖化 文明を崩壊させた気候変動」(河出書房新社)

がある。世界各地を訪れて、そうした現象について史料を検証している。人類社会と気候変動に詳しい米人類学者の著作であり、気候学者ではないため、まだまだあいまいだが、一読の価値はあるとの印象だ。原題は

 THE GREAT WARMING Climate Change and The Rise and Fall of Civilizations 2008年

 温暖化の程度として、あるいは証拠として、大干ばつや降水量などに注目している。

  ともかく、温暖化スキャンダルは、これからも目が離せない。

 日本の科学ジャーナリストは何をしている !

  日本科学技術ジャーナリスト会議は何をしている ! 2010.06.17

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反骨の科学者 山本義隆氏の意気軒昂 「磁力と重力の発見」を読む

 元東大全共闘代表の近著、と言っても7年も前の浩瀚な

 「磁力と重力の発見」(山本義隆、みすず書房、全3巻)

を、ふと思い出し、暇になったのを機会に通読した。ひところ、話題になったのとは別の感慨に浸ることができた。これは話題の書ではない。

 研究者たるもの、どうあるべきか

ということを、山本氏自身が語りかけてくるような著作である。構想20年、山本さん、50代の仕事(受賞は62歳)である。地球温暖化スキャンダル騒動の後に、この本を読んで

 正統派アカデミズムとは何なのだ

ということを考えさせられた。

 この本の中身を簡単に言えば、

 一方で経験や「手仕事」を重視する技術的な発展があり、他方でスコラ哲学という「頭仕事」重視の正統派学問が現実からますます遊離していった16世紀。そこから事実重視の実証主義的な近代西欧科学が誕生する。しかし、それには、なにがしかの理論的な枠組み、つまり導きとなる思想が必要であり、それは占星術や錬金術といった魔術思想であり、その具体的なものとして磁石の不思議な振る舞いを解釈する考え方であった。

 占星術は、当時、天体は人間など地上物体に遠隔作用で影響を及ぼしていると考えられており、遠隔作用という重力の考え方受容の下地となった。また錬金術は、地球もまた天体と同様、活性的な存在であると考えられており、互いに力を及ぼしあうと考えられ、天体力学の受け入れに必要な自然観を持っていた。

 具体的には、重力という、なんとも不思議な遠隔力の理解には、目に見えるアナロジーとして磁石があり、その磁力から重力という考え方が生まれ、受け入れられていった。近代西欧科学は、自然界の不思議な現象を考察する自然魔術から、観察をこえてみずからテストする実験魔術を経て、自然科学へと脱皮していったというのが、山本説である。

 大変にうなづける仮説である。16世紀の実験魔術から17世紀科学革命が誕生して行ったのであり、そこには必然性と連続性があるとしている。突然に天才が現れて、科学革命が起こったのではないと言う点では旧来の定説と同じだが、その具体的な変遷を文献などで後付けており、上記仮説に説得力を持たせている。

 こうした山本さんの論考には、

 近代科学が、なぜ近代西欧に誕生したのか

という問題意識があろう。ただ、この本では、こうした比較文明論的な問題提起をしているのに、西欧ばかりの話で、ほかの文明との比較がまったくない。したがって厳密な意味で、「なぜ西欧に」という問題解決には至っていないのが残念だ。

 その後、山本さんは、66歳で

 「一六世紀文化革命」(みすす書房、全2巻)

を書き下ろしている。一言で、内容を言えば、「磁気と重力の発見」の続編であり、

 「16世紀西欧「手職人」革命」

ということだろう。いかにも大学アカデミズムを強く批判してきた山本さんらしい仮説である。

 これにより、さきほどの問題意識にこたえるつもりだったのだろう。

 ただ、この点については、少し強引に過ぎないかという思いが残った。「手職人」だけで、17世紀西欧科学革命が起こったとは信じられない。これだと、当時の日本でも、

 近代日本科学革命

が起こっても不思議ではない。日本ではそれが無理としても、高い科学や技術を当時誇っていた中国で、

 近代中国科学革命

が当時起こっても不思議ではない。それが西欧だけにしか起こらなかったのには、論理構成に巧みな「知」の拠点としての大学という西欧アカデミズムの果たした役割が大きかったからではないか。大学も新しい時代に向けて自らを変革させ、巻き返し、主導権を握り続けようとしていたことが西欧科学革命の内実ではないか。当時の日本や中国にそんな「知の拠点」がなかったことが、

 西欧のみに科学革命が誕生した原因

であった。当時の日本や中国のように、知識が家伝、秘伝であるような社会では、つまり、

 知識の蓄積や共有のない、それを実現する人材養成機関のない社会では、科学革命は起こりようがない

そんな気がする。

 ただ、この浩瀚な労作、実は、失敗作ではないかと思う。ホームゲームの前作「発見」はさすがに鋭いが、つまり物理の専門家にも読んでもらえる科学史となっているのに対し、この「革命」は、サッカーで言えば、アウェーでの仕事であり、鋭さがない。「手仕事職人」の重要性はいまさらだれでも知っていることであり、科学革命の前段階として当然であることは科学史家なら知っている陳腐な結論になっているのは否めない。また、アカデミズムの特長をことさらに低く評価しているのも、山本氏としては無理からぬところだが、限界でもあろう。

 反骨の科学史家として、アカデミズムのしたたかさをえぐってほしかった。アカデミズム否定の「革命」というのは、山本氏の人生を考えるとわからぬでもないが、目が曇ったということだろう。同じ時代、同じ分野を歩んだ者として、これが物理学徒の限界だとは思いたくない。

 山本さんには、大学と科学革命の関係について、まやかしでもない、そして、思弁的でもない、ましてや大衆迎合でもない人生をかけた透徹した史眼で、もう一度、著作活動に挑戦してほしい。70代の大仕事になるだろう。

 あえて言うが、東大全共闘崩壊から40年、残り10年の山本さんの人生は、西欧ではなく、日本における大学と科学革命について語るためにあるのではないか。大学についても、また、科学革命についても、山本さんにとってはホームゲームのはずだ。2010.06.16

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本屋大賞、「天地明察」 

 今年の、書店員が「いちばん売りたい本」の本屋大賞に選ばれた

 「天地明察」(角川書店)

を読み終えた。本職の囲碁打ち、趣味の和算、そして、その二つから出てきた時代の要請、改暦。そんな渋川春海の物語である。一言で言えば、

 歴史エンタテインメント

だろう。明らかに司馬遼太郎の作品とは、違う。実在の人物をその実人生をほぼそのまま描いて、これほど面白く読めるようにしたのは、著者、うぶかたとう氏の力量だろう。

 歴史上の人物を、これほど面白く描いたのは珍しい。

そんな印象だった。内容的には、先の三つの要素が絡まって物語り、というか、改暦がすすむ設定になっており、少し散漫なストーリーになっているのが残念。最後が少し急ぎすぎで、雑。もう一章あってもいいかもしれないと感じた。

 ところで、この大賞第一位のほか、2010年には、

 第二位 神様のカルテ

 第三位 横道世之介

 第四位 神去(かむさり)なあなあ日常

 第五位 猫を抱いて象と泳ぐ

 第六位 へヴン

 第七位 船に乗れ !

  第八位 植物図鑑

 第九位 新参者

 第十位 1Q84

が選ばれている。 これらを本屋でぱらぱらと読んだが、60歳をすぎた人間には、しんどくてとても読む気がしなかった。

 名のある書評者による推薦ではなく、本を売りたいと思っている書店員が実際に読んでお客に薦めたい本というものがどんなものか、この十位までりーのリストでぼんやりとはわかったような気がする。さしたる選考基準はない。要するに、あまり七面倒なものはダメだと言うことぐらいか。

 全国紙日曜版の読書欄の書評に出ているオススメの硬くてまじめな本は、もはや売れ筋ではない

と言うことかもしれない。電子書籍の時代にはますますこうした傾向が強まるのだろうか。

 それにしても、売れる本と、読むべき本とは違う

 当たり前だが、そんなことを教えてくれた「天地明察」だったように思う。2010.06.13

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地球温暖化スキャンダル ネットメディアの威力まざまざ

 今、話題の

 「地球温暖化スキャンダル 2009年秋クライメートゲート事件の激震」(日本評論社)

を読んだ。いわゆる20世紀末から急速な温暖化を示す「ホッケースティツク」現象は真実かをめぐる謎を追求した論争書である。事件の発端となった大量のメールと文書の流出先の最初のネット受信・処理者で、米気候科学データ解析監査集団の一つ、ブログCA(ClimateAudit)の主導的常連、S.モシャーほかが著者で、日本語翻訳者は渡辺正東大生産技術研究所教授。

 読んだ感想を一言で言えば、

 単純ミスではすまない、恣意的な「補正」、「較正」、「再構成」という名のデータ捜査が行われていたのではないか。いや、その可能性が極めて濃い

と言うものだった。この問題については、マスコミは、たとえば「信頼を取り戻すため、IPCCにかかわる科学者は社会に対し何が分かっていないのかをも含めて研究の現状を説明すべきだ」と、共同通信「時言」の辻村達哉論説委員は書いている。しかし、そんなことではすまない「底知れぬ深い疑惑」がありそうだ。この本は、そのことを気づかせてくれた。

 同著は、この点について、

 学術論文の審査は、もともと腐敗していたIPCC報告書の編集に役立てようとして腐敗し、その結果、あやふやな知見から明確な結論を出した科学論文が残ってしまう。研究者も支持者も、自分たちは崇高な仕事をしたのだと考える。地球を危機から救うのだ。だが、事実よりも強い主張をするために、論文発表マシンを「細工」した。(同著p273より)

と著者は「彼らの動機」を告発している。彼らとは、事件の主役のF.ジョーンズ英イーストアングリア大(UEA)気候研究所(CRU)所長グループを指す。ジョーンズ氏は、IPCC第四次報告書執筆責任者の一人でもある。

 権威など意に介さないブログ世界と遭遇し、<チーム>はカルチャーショックを受けた。指揮統制型ののコミュニケーションに固執する彼らが、そんなブログ世界に面食らったのが、事件の根源だったような気がする

とも結論付けている。そのとおりだろう。この事件は「単純ミス」が惹き起こした事件では決してない。研究者にあるまじき意図的な行動があったのだ。その動機は何か。

 事件の動機として、この本が指摘をしているのは、「研究者や管理職にとって、研究費の獲得はいつだって心配事だ」「外部資金がほしい」「研究者は研究費の獲得に命を削る」ということだ。そこで登場するのが、「大型研究には国の助成がターゲットになる」というわけだ。研究費の申請をするわけだが、

 「温暖化を証明したい研究で、温暖化を疑う結果は出せない。つまり、バイアスがかかる」(同著p275)

のだ。 

そして、

 「たいていの研究者は、いつも最善を尽くしていると思うのだろうけど、気候研究者の「最善」は、どうみても世界のことを考えるものではなかった」(p277)

という結論になる。

 このネット著者の言い分がすべて正しいとは思わない。しかし、真実の一部はついていると思う。

 この著作を読んで、思い出したのは、同じ訳者、渡辺正氏の

 「常温核融合スキャンダル 迷走科学の顛末」(原題=BAD SCIENCE、 朝日新聞社、1993年)

 原著者は、科学ジャーナリストのガリー・トーブス氏。この事件も、いかに研究費を稼ぐか、という科学とは本来直接関係ないところから起きたドタバタ劇だった。

 この本の「まえがき」には次のような「座右の銘」が掲げられている。

 常温核融合のドラマは、科学界とジャーナリズムの両方に当てはまる次の二点を教訓に残した。

 一 ものごとはよく調べる。見かけがどれほど単純でも、たいていは奥が深い。

 二 ものを書く前には、筋書きが整っているかどうかよく確かめる。

 このことは、温暖化スキャンダルの起きた今でも通用する教訓だろう。科学者にも、そして、科学ジャーナリストにとっても。2010.06.11

  追記 2010.06.15

  渡辺正氏は、このスキャンダルの最新の状況について

 「月刊化学」(化学同人、2010年3月号、5月号)の「時評」欄

に詳しい紹介記事を書いている。各国の報道や政府反応なども年表にしてあり、貴重な記事である。これを読むと、

 20世紀末あたりの高温化現象、いわゆる「ホッケースティック」など、

 地球温暖化という神話が崩壊寸前

であることが、ビビッドに伝わってくる。一読を進めたい。

 科学ジャーナリストの出番である。というか、その真価が問われる正念場だ。

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久しぶりに元気の出る映画を見ました。間違って。大阪のロッキー「ボックス ! 」

 もう限界は

 まだまだやなあ にんげんだもの

というのが、高校ボクシング部に掲げられていた。「ボックス ! 」という映画を見た。もともと見たかったのは、「BOX 袴田事件 命とは」というのだったが、間違えて見てしまった。でも、

 元気の出る映画

だった。見ていて、これは、あの「ロッキー」だなと思った。そう確信したのは、高校生ボクサーが試合前の朝のロードトレーニング前で、

 牛乳を一気に飲むシーン

を見たときだった。もともとの「ロッキー」映画では、朝のロードトレーニング前に生卵を三個ほどコップに入れて飲むシーンがあるからだ。言って見れば

 大阪版、高校生版「ロッキー」

だ。エイドリアンの代わりに、この映画では女子マネージャが登場していた。いかにも大阪らしい雰囲気を出していた。原作もあるそうだ。

 「ボックス ! 」(太田出版)

である。監督は李闘士男。たまには、こうした間違いで見た映画もいい。意外なものに出会うから、得をした。2010.06.05

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新聞も読める「iPad」 いよいよ来るべきものがきた感じ

 6月1日付静岡新聞経済面を見ていたら、

 30以上の新聞、雑誌「iPad」に配信

という見出しに、小生、

 いよいよ来るべきものが来た

という衝撃を受けた。iPadと言えば、電子書籍。電子書籍と言えば、iPad。との印象が強いが、よくよく考えれば、新聞は毎日発行される本と考えれば、

 いずれ新聞も提供されるであろう

と考えても何ら不思議ではない。記事によると、

 提供新聞は毎日新聞と西日本新聞、スポニチの3社の主要記事が紙面の形でそのまま読める

それが月々450円の利用料でで読めるのだから安い(通信料は別だが)。日本テレビは、ニュース動画を随時配信するというからすごい。そのほか、朝日新聞社の「AERA」、講談社の「FRIDAY}もだ。今はまだまだ少ないが、いずれ、大きな変化になるような気がする。

 小さな記事だが、大きな変化になるだろう。2010.06.02

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子どもの臓器移植 意思不明のためらいは「提供OK」の改正法 移植は増えるか

 5月30日付静岡新聞の社説に

 子どもの臓器移植、虐待見抜く情報共有を

という主張が載っている。改正法がこの7月に全面施行されるのを受けた社説だ。これまでは、臓器提供の意思があると書面で意思表示した15歳以上のみが、対象だったのが、これからは「提供しない」との意思表示を書面でしないかぎり、年齢に関係なく、だれでも臓器提供者になりうる。つまり、

 子どもの臓器提供が可能

となったというわけだ。これまでの提供意思不明の人は摘出ダメというのから、意思不明は「OK」と見なすというわけだ。しかし、大人の場合と違い、子どもの臓器移植には、虐待児童の問題がある。移植児童の助かる命が、虐待児童の命によってあがなわれてはならないと指摘している。その通りだろう。社説では、そのためには虐待を見抜く手立てをしっかり整えよ、といろいろ提案している。

 ところで、改正法で、臓器提供の機会が飛躍的に増えると思いきや、実際には臓器提供は

 これまでの年間5、6人から、改正法でもせいぜいが70人程度

という国の試算がある(米国では毎年7000人!とは比べものにならない。日米の人口を勘案しても、米国並みなら、年間3000人くらいの提供が日本であってもいいはずだが)。米国の場合、本人の提供意思表示の確認だけで摘出が可能なのに対し、われかれの文化の違いから、日本では仏様にメスを入れるのはダメだという文化土壌から、結局、移植法でも必要な承諾または、拒まないという家族(遺族)の承諾が得にくいからだろう。それも両親、祖父母、子、孫、兄弟のいずれからも必要なのだ。2010.06.01

  追記

 現在、日本臓器移植ネットワークだけでも提供登録しているのは、約6万人。日本では現在、毎年約100人に1人が死亡する。これをそのまま単純に臓器提供登録者に適用すると、

 ネットワーク登録者だけで毎年約600人の提供者が出る

はずだが、そうはなっていない。日本全体では圧倒的に65歳以上が死亡するのに対し、登録者はほとんどが60歳未満であり、この年齢層ではそうそう死亡するということはないという事情がある。100人に1人というのが、過大なのだ。登録者の年間死亡率は、おそらく1けた小さく、1000人に1人くらいだろう。そうすると、

 ネットワークだけで60人くらいは毎年提供者が出てくる。これに対し、家族が提供を承諾しないものも、上記のような事情から多いとすると、60人からかなり下回るだろう。

 これを補うのが、というか、それよりもかなり多いネットワーク以外で意思表示している、たとえば、ドナーカード、運転免許証、保険証などによる意思表示、つまり提供OK者または、拒否者は、これまでの15歳以上を対象にした調査では、10人に1程度。

 ということは、日本人の9割は「意思表示不明」となり、家族が提供を承諾すれば、臓器提供者になり得る。問題は、亡くなった本人の生前の意思が書面上不明なのに、家族(遺族)がにわかに承諾するかどうかだ。それは稀であろう。よほど臓器提供について、亡くなった本人が生前に提供を仄めかしていたという場合に限られるであろう。そういうケースがどのくらいか、推定は難しいが、100人に1人としても、毎年100万人の意思不明者がでるわけだが、そのうち移植可能な「健康な臓器」の人は、さきほどのように10人に1人として、

 毎年1000人の臓器提供の承諾

があるはずだ。これは現実としては、1けた大きい数字だ。ということは、おそらく、意思不明者に対し家族が提供を申し出るのは、100人に1人よりもう一けた低く、1000人に1人ということだろうか。子どもの臓器提供は、推計は難しいが、もっと少ないような気がする。

 社説では触れられていないこうした数字をあれこれ考えると、改正法でも、移植が大いに進むとは考えにくい。ましてや、15歳以下の子どもの移植はむしろ稀であろう。

 そもそも子どもが脳死状態になると言うのは、通常は考えられないからだ。交通事故の場合が考えられるが、その場合でも法的な脳死判定ができないようでは、臓器摘出はできない。

 それで、興味あるのは、国立こども病院とも言うべき国立成育医療研究センター病院(東京都)の実態だ。2008年4月までの5年間に、重い病気やけがで小児集中治療室(PICU)に運ばれた子どものうち、心肺停止が予測されたのは84人だった。年齢はゼロ歳から2歳が多く、たいていは最後は、親が子どもを抱っこするなどしてみとったという。過度の延命治療を控えた。こうした実態からは、悲歎に暮れる親が子どもの臓器提供をそう簡単に承諾するとも思えない。制度として改正法ができたとは言え、子どもの臓器移植はそう期待できないだろうと推察される。

 3月19日付読売新聞の「緩話急題」に佐藤良明科学部次長が

 改正臓器移植法 ためらいの国ま意思表示

について書いている。「ためらいは(これまでと違って)拒否とみなされない」。いやならいやと家族に言っておくか、書面で意思表示しておく。そんな国に日本はなったのだと注意を促している。優柔不断、ためらいは危険だと言うことだろう。その意見に賛成したいが、人間なら、死後とは言え誰しも決断できずためらうのが普通だ。それを認めないというのは、不幸な国になったということだろうか。

 ここまで書いてきて、ふと思った。新生児や幼児、さらに、就学前の小児、小学生の意思表示というのはどういう風に考えるのだろう。どこから自分の意思と認めるのだろう。これは一律に決めるのは難しい。拒否の意思表示があれば、摘出はできないとしている移植法自体にもあいまいさがあるのではないか。2010.06.01 

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