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この映画を観たら、ダーウィンはどう言うだろう ドキュメンタリー「Oceans」

 ダーウィンは、そう、きっとこう言うだろう。

「動物であれ、植物であれ、環境が生物のその後の進化を決めると言う私の自然淘汰説は間違っていた。食うか食われるかの生存競争に勝ったものが、環境に対する適者であり、生き残るとしたのは、間違いだった。そうではなくて、たまたま運の悪いものが捕食され死に、運のいいものが幸運にも生き残るのだろう。海の生き物は、環境に盲目的に鼻ずらを引きずり回されて進化してきたのではない。映画からは、海の生き物は自らの判断で、むしろ環境を巧みに利用して、知恵を絞り、捕食しているのが分かる。そもそも個体には遺伝的な変異に差なんかない。わしは、ほんのわずかの個体差に対して、自然淘汰が働くと考えたのじゃが、そもそも個体の間には遺伝的変異について差はない。どうやら私の自然淘汰説、適者生存という、進化論は間違いだったようだ。少なくとも海洋の生き物については」

 このドキュメンタリー映画には、ハンドウイルカの群れが一斉にイワシの大群を追い込み、囲い込み、一気に捕食する豪快な「狩り」の様子が映し出されていた。明らかに、イルカはイワシの捕食という共通の目的に向って互いにコミュニケーションを取り、しかも、場当たりではなく、ある意味、主体的な戦略、あるいは戦術を持って、臨機応変に行動しているように見えた。イルカには、みずからの状況判断で行動すると言う意味の主体性があるのだ。

 この様子を上空で旋回しながら待ち伏せしていた海鳥、カツオドリの群れが、囲い込まれてイワシがぐるぐる一定域を海中で旋回しているときを狙いすまして、翼を閉じて一気に急降下し、次々と海中のイワシをくちばしでとらえるシーンは、まさに、運の悪いイワシが捕食される様子をまざまざと私たちに見せつけている。決して、泳ぎのうまい強いイワシが巧みにその攻撃から逃れているようには見えない。たまたま狙われたイワシの運が悪かったと言えそうだ。この様子からは、イワシの環境適応の差、つまり個体の遺伝的変異の差はまったく関係ないように思える。

 その後、このイワシの大群は、大きな口を空けて襲い掛かってくる何匹かのクジラに飲み込まれるが、これはもうはっきり言って、どのイワシが適者であり、どのイワシが弱者であるかなどという問題ではなく、運の悪いイワシがクジラに飲み込まれていったにすぎないと感じた。どんなに弱いイワシでも、たまたまクジラから離れていたから、捕食を免れたに過ぎない。

 こうした捕食されるイワシの側にも、捕食されまいとして、まとまって行動するためのコミュニケーションがあることがはっきり分かる。統制の取れた行動が画面から伝わってきた。ここからは、個体の集まりである「種」として、生き残るための主体性がある。決して、捕食者の意のままにされていない。ただ、人間集団のように、統制を図るためのリーダーがいるようには思えないから、不思議だ。危機に瀕しても、たとえ統制をとるリーダーがいなくても、「種」は、統一行動がとれるようだ。個体の主体性だけでなく、

 種の主体性

を感じた。

 「海って何?」という問いかけで始まったこの映画から、主体性の進化論の復活を強く印象づけられた。海とは、地球生命の出発点であり、その後の進化、それも、主体性の進化論の正しさを証明する場だったと応えたい。

 北洋の海域のセイウチでは、母セイウチが生まれた子どもを抱きかかえるようにして、海中生活になじませいようとしている感動的なシーンが最後に出てくる。その母親の表情といい、そのしぐさといい、人間の母親の場合とそっくりだ。そこには親子の絆があるとしか考えられない映像だ。

 セイウチにも人間性がある

という強烈な印象を与える。これを本能と片付けられないのではないか。ダーウィン進化論は環境至上主義であり、生物に自ら状況に応じて選択したり、判断したりする意味での主体性を認めていない。しかし、この映画は動物には主体性がある、動物は機械ではないことを強く印象づけている。

 また、体制(ボディ・プラン)についても、驚くほど見事であり、とても、ダーウィン、あるいはネオ・ダーウィン進化論の言うように、親から子へ、子から親へと、その間にたまたま起きた突然変異の積み重ねで出来上がったとはとても信じられない。そんな悠長さでは生きながらえなかったであろう。種全体が絶滅する。そうではなくて、

 変わるべき時が来たら、種全体が、親から子へというような悠長なことではなくて、一斉に、環境にふさわしいように体制、ボディ・プランを一気に変えるというのが、進化の実相ではないか。もたもたしていては、順応の限界を超えてしまって、種は環境に適応できず絶滅する。体制のなかでも、特に精緻な構造を持つ目の進化は、この極端な例ではないか。いつ起こるかわからない、しかも盲目的な突然変異を待っていて、中途半端に目が見えるでは種の存続は極めて困難だ。環境の変化が激変し、変わるべきときがきたら、種全体が一斉に変わる。さまざまな種の中で、うまく、そして、運よく、体制を(それまで生殖細胞内に蓄積してきたDNA調節制御の部分を多重フィードバックを通じてフル動員して)変化させた種のみが、したがってその種の個体も生き残ってきたのだ。運悪く、うまく体制、ボディプランを完成できなかった、つまり、袋小路に陥った種は、残念ながら、絶滅した。これが進化の実相ではないか。 

 このフランス映画は、冒頭、あのダーウィンの島、ガラパゴス諸島の海に住んでいる水生のイグアナから始めているのは、決して偶然ではあるまい。製作者の意図がわかる。ただ、監督でナビゲーター役のジャック・ペラン氏は、ダーウィンの進化論を信じていることだろう。2010.01.23

 追記 2010.02.28

  上記のイルカたちの、そしてクジラたちの「狩り」の様子から

 運のいいものが生き残り、運の悪いものが死ぬ。個体差は関係ない

と書いたが、実は、生き残った、たとえば1%のイワシには遺伝的な個体差があり、ここに自然淘汰が働くと考えれは、りっぱにダーウィンの進化論は成立する。つまり、生き残ったものの間に、その後の増殖率に差が出てくる。増殖率の高いものが、生存に有利になり、低いもののをいつかは押しのけてしまうという理屈である。

 この理屈は「今西進化論批判試論」(柴谷篤弘、朝日出版社)のp159に解説されている。柴谷氏は、この本で、生物学者、今西錦司氏の「主体性の進化論」について、縷々検討した結論として

 「現在、生物進化について生物学が到達しているところは、案外、今西のいおうとしている内容と一致すると私はおもう」

 「自然淘汰も、実は今西の棲みわけの内容とだいたい重なり合う概念であるし、種の形成についてもほぼ重なり合う概念として現代の遺伝学の成果を考えることができる。-現代のネオダーウィニズムからみると、今西の考えているところと現代のネオダーウィニズムの間には、実は基本的な矛盾は全然ないのだ」

 と書いている。

 ただ、生物の主体性について、生物学ではふつう行われていないとした上で、主体性を持った生物が主体的な行動を選択することは、なおネオターウィニズムの枠内であるとして、また、ダーウィン自身も「種の起源」でこの可能性にある程度気がついていたふしがあるとして(p204)、

 「私自身(柴谷)も、今西進化論の中心は、その最近著の書名にあるように、生物の主体性を重視する考え方考え方にあり、その限りにおいてこれを支持してゆきたい」

と主体性の進化論に賛意を示している。

 つまり、生物の多様性の原因は、環境の多様性よるよりも、むしろ生物自体に内在する理由によると見るべきであるというのだ。

 小生も、今西進化論の独自性は、この点にあると思う。

 生物に主体性をはなから認めていない(欧米流の客観主義一辺倒の)生物学はおかしい。生物は環境に鼻面を引き回され続けて進化してきたのではない。単細胞にしろ、哺乳類にしろ、まして人間にしろ、環境に積極的に働きかけてきたのだ。この意味で、すべてが偶然に支配されてきたとする進化中立説もおかしい。

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