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過去に目をつぶる者は-原爆展と空襲資料館と

 今日は「広島原爆の日」である。

 静岡市の静岡市民ギャラリー(静岡市役所本館)に、「静岡県原水爆被害者の会」会長の川本司郎さん(73歳)の体験談を聞きに、出掛けた。被爆者健康手帳は持っているが、爆心地からわずか1キロのところで直接被ばくし、被爆者健康手帳は持っている。しかし原爆症認定患者ではないという。原爆被爆者援護法により、国が認めた症状に相当するこれといった病状が表面上はみられないからないからだろう。しかし、さく裂当時の内部被ばくにより、症状がいつ何時出てくるかもしれないという不安をかかえながらの窮屈な人生だったに違いない。それだけに、体験談の内容には、単なる過去の話ではないという重みを感じた。

 ギャラリーでは、「ヒロシマ原爆展in静岡」が開かれており、当時の遺品が展示されていた。いろいろ学ぶことは多かったが、驚いたのは、

 川本さんは、高い高度の爆撃機からの原爆投下直後から、地上近くでさく裂するまでの様子を見上げていたということだった。落下傘のようなものにぶら下げられて原子爆弾が降下してきて、さく裂したというのだ。爆心近くの鉄橋で被ばくした。さく裂直後に鉄橋に伏せ、しばらくして目を開けると、猛烈な爆風で真っ暗だったという。

 話には聞いていたが、被ばく体験者から、さく裂直前の様子を直接聞くことができたのは、小生にとって初めてであり、衝撃的であった。川本さん9歳の時のこの体験が今も、強烈に残っているというのだ。多少はあやふやな点、あるいは記憶違いで後から付け加わったものもあるかも知れない。が、大筋は正しいのではないか。それほどに具体的な体験談だった。

 さて、それでは何のために、原爆を落下傘付きで投下したのだろうか。そのための摸擬爆弾による訓練を米軍では、本番に先立って、しばしば行っていたらしい。それは

 投下爆撃機のパイロットたちが退避する時間的な余裕をつくるため

だったのだろう。地上に到達するまでに原爆をさく裂させなければならないが、落下傘なしでは、その間の時間があまりに短く、爆撃機自体の退避が間に合わず、原爆さく裂に巻き込まれかねないという懸念があった。

 戦争とは、かくも非情

なのだ。

 この原爆展とともに、隣接するコーナーでは、「静岡空襲-市民が描いた体験画」(静岡平和資料館をつくる会)が開かれていた。静岡県内では、浜松市が1945年6月18日、旧静岡市は6月20日に最初の空襲を受けている。静岡市の場合、この第一回空襲で市街地の3分の2が破壊された。その後、静岡市清水区、沼津市も空襲に遭っている。空襲体験画を拝見すると、これはこれで、現代では想像することすらできないような、大変な惨状である。原爆体験画と比べて、その凄惨さが軽いとはとても言えない。

 広島、長崎県にはりっぱな原爆資料館がある。東京・夢の島には、被ばくした第五福竜丸船首の展示をしている「都立第五福竜丸展示館」がある。さらには、第五福竜丸の船体模型を展示している県内施設に焼津市歴史民俗資料館がある。とすれば、静岡県でも県内の空襲の惨状を後世に語り継ぐ「静岡県空襲資料館」をつくることは、体験者が次々に鬼籍に入っている現在、県民にとって喫緊に必要なことではないだろうか。県内在住者で組織する原水爆被害者の会との共同歩調で、「静岡県平和資料館」づくりに取り組むのもいいのではないか。

 過去に目をつぶる者は、現在にも盲目である

(ワイツゼッカー元ドイツ大統領)。

 原爆展を見に行って、この言葉を思い起こし、静岡空襲資料館にも思いを馳せた。2009.08.06

 

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