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1メートルの誤差の謎 映画「剣岳 点の記」

 最近は名作が多くて困る。映画のことである。自宅マンション近くに映画館があるので、土曜日、日曜日ともなると、月に2、3回はついつい出掛ける。しかも、60歳以上は「シルバー料金」と言って、通常1800円が半額近い1000円。夜遅くなっても、一杯飲んだ後に、思いついたように、ひょいと出掛けられる。見終わるのが、午前0時を回っても、帰り道に、小粋なスタンドバーがあり、立ち寄って映画好きのマスターとともに余韻を楽しむことができる。便利である。それだけにお金がついついかかって、とてもシルバー料金だけではすまないので、困る。

 そんな中、黒沢明監督の下でカメラ監督をしていた木村大作監督が初めてメガホンを取ったという「点の記」を見た。丁寧な映像が圧倒的だった。日露戦争後の明治時代に、陸軍省陸地測量部が、日本地図完成のため、最後の空白地帯の剣岳への登頂を目指し、山頂に測量三角点を設置するというストーリー。創設間もない日本山岳会との先陣争いも映画に厚みを添えていた。測量隊が登頂成功したのは明治40年(1907年7月13日)であった。意外な結末、

 初登頂ではなかった測量隊/初登頂は1000年前/山頂に行者の錫杖

という史実もきちんと映像化されていた。どのようにして登るのか、測量隊も山岳会のパーティもそのルートを捜しあぐねているとき、測量隊の案内人が修験者から、古くからの言い伝えとして、

 雪を背負って登り、雪を背負って降りよ。開山すれば山(剣岳)は神となり、仏となる

というヒントを聞き出す。剣岳最大の大雪渓を一気に登り切ることで、ようやく登頂に成功する。大雪渓を首尾よく登り切ることができるかどうか、その成否は、その時の天気次第。日本で初めて天気予報(全国版)が気象台から出たのは明治17年(1884年)であることを考えると、当時、山岳天気予報を入手するなど夢のまた夢。気圧が高くなると天気がよくなるという理論的な知識はあったものの、また、気圧計にその傾向が出ていたという気象学的な根拠はあったものの、決行の決め手となったのは、山を知る現地の案内人の「勘」を信頼したことが大きい。案内人への信頼が、測量官をして大雪渓を一気に登ることを決断させたのである。

 この物語で、科学ジャーナリストとして、注目したのは、測量隊の測量結果

 剣岳=2998メートル(明治の測量隊、1907年。「日本百科全書」もこの数字を採用)

と、最近の結果

 剣岳=2999メートル(最近のGPS、2004年=確定値)

との差である。わずか1メートルの誤差と言われているが、本当に誤差かという疑問である。

 明治の測量隊の登頂は、ようやく雪の消えた7月13日。実際に測量をしたのは、準備作業などを考えると、この日から1カ月以内であろう。剣岳一帯は冬の間、雪の重みで山体全体が少し沈んでいて、ようやく少しずつ山体がタイムラグをもって、浮き上がろうとしていたときに、なされたものであると推定できる。もし、秋口に測量していれば、標高値はもう少し高くなっていたであろう。雪の重みを計算に入れると、この1メートルの「誤差」は誤差ではなく、物理的に意味のある「有意」な数字であろうと推定できる

 第二は、日本列島は、プレートの沈み込みの反動で、常に日本列島の背骨は年々、数ミリ程度、わずかではあるが押し上げられていることが分かっている。したがって、明治と今の100年間で剣岳は数十センチメートル程度、標高が高くなっているはずだ。

 以上の二点を考慮すると、明治の測量隊の2998メートルは、ほぼ正確な値であるように思える。つまり、仮に、明治時代にGPSがあり、測量隊の場合と同様、7月ないし8月に測定していれば、2998メートルとぴったりの数値が出たであろうと推測される。

 この映画とは直接関係ないが、海岸線を丹念に測量して歩いて、日本列島の形を驚くべき精度で確定した伊能忠敬(1745-1818年)も忘れがたい存在だ。約20年の歳月をかけて日本列島の輪郭(北海道の北端の一部を除いて)を確定した。死後、弟子達によって地図の形に仕上げられた(1821年)。これが

 「大日本沿海輿地(よち)全図」

である。昭和になっても使われたという。なにしろ、精度は1000分の1、つまり、10キロの測定では、10メートルの誤差しかなかったのである。百年後に、陸軍省陸地測量部が最後の空白地を測量したわけだが、精度は1メートル未満にまで高まったのである。そして、現代のGPSでは、1センチメートルまで測定精度は高まった。百年ごとに、10倍の精度向上である。

 この二十世紀初頭は、世界的な天文学者、木村栄博士(金沢市出身)が登場し、地球の形を正確に測地する技術に貢献した。つまり、Z項の発見である。いずれにしても、この映画の時代背景には、国家の基盤づくりとしての測地学がある。その基礎となるメートル原器が国際的に定められたのは1879年である。主権の及ぶ範囲を厳格に規定する必要から、国家的な事業として測地学がこの当時、世界的な規模で発達した。当時の測地学の発達は、近代国家建設を急ごうとする時代精神の結果と言えるかもしれない。「点の記」もそうした地球規模の動きに対する国内版と言えるだろう。

  「点の記」は、明治という近代国家建設の基盤づくりに貢献した1コマであり、日露戦争勝利を経た最後の仕上げにより、日本地図(縮尺5万分の一)は完成した。その出発点となったのが、伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」づくりだった。この間、「国家の大計」に約100年かかった。

 「点の記」を見終わって、近くのスタンドバーのカウンターで、そんな感傷に浸った。2009.06.22

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