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「DNAの魔力」 足利事件の弁護人、佐藤博史氏執念の言葉

 その道に執念を燃やし続けた人間には、その人でなければ言えない一言がある。そんなことに気づかされた番組が、このところ続いた。

 一つは、6月6日NHK番組アーカイブス。先ほど亡くなった天衣無縫の人生を送ったと思っていた棋士、藤沢秀行の死ぬ間際に必死で筆を取ってしたためた、

「強烈な努力」

という「遺書」である。墨で横書きに黒々と一メートル以上の紙に書かれていた。弟子たちへの励ましであろう。天衣無縫と外からは見られていたかもしれないが、秀行氏の心の中ではそれとは無縁の世界を歩んでいたのであろう。ひとかどの人物ともなると、その人生を一言で表す、これまで誰もが使ったことのない、しかも、短い、しかも、パッとすぐにわかり、なるほどとひざを打ちたくなるような手垢で汚れていない言葉を持っている。藤沢氏の場合、それが「強烈な努力」であった。わずか五文字。それでいて、これまで誰も使ったことのない自分の人生を表現している。この一言を紹介したことで、この番組を放送した価値があったと思う。

 もう一つは、DNA再鑑定で無期懲役囚、菅家利昭さんの再審無罪が確実となった足利事件の弁護人、佐藤博史氏の言葉である。日曜日午前の人気番組「サンデープロジェクト」に、生出演した菅家さん、佐藤さん、木谷明元東京高裁判事(現・法政大学法科大学院教授)、ジャーナリストの大谷昭宏の討論の中で、佐藤弁護士は、キャスターの田原(たはら)総一朗氏が、足利事件の裁判や再鑑定での道のりがこんなに長くかかったのはなぜか、という問うた。すると、佐藤さんは、一言

「それは『DNAの魔力』があったから」

 つまり、警察にも、検察にも、そして、公正に裁かなければならない、一審の宇都宮地裁、二審の東京高裁、そして最高裁の裁判官にもDNA鑑定は絶対正しいという神話が魔力となって彼らの思考を縛り付けたということだろう。そのことを、わずか六文字で表現、言い切った。すさまじい執念であり、驚いた。

 静岡新聞は足利事件について、

「この教訓を無にするな」

という社説を掲げている。もっともだが、その前に、

 菅家さん本人に対して、検察や、たずさわった裁判官は何をすべきか

がまず、問われるべきであろう。企業などが反社会的な不祥事、事件を起こした場合、記者会見して、社会に対し頭を下げて謝罪している。これと同様、裁判所や担当裁判長裁判官は、再審の判決確定時など、しかるべき時期にきちんと謝罪会見をすべきであろう。その時、その時、きちんと適法な手続きをしているとして逃げるようでは、司法不信は深まるばかりだ。司法の権威を守る前に、被告の利益を守るのが裁判官の仕事のはずではなかったか。三審制は責任の所在をあいまいにするためにあるわけではない。とりわけ、一審の宇都宮地裁(女性の池本裁判長裁判官)の罪は重い。なにしろ、菅家さんとその家族の人生を左右しかねないDNA鑑定の信用性について、警察庁が科学捜査の手段としてDNA鑑定の導入を決定してからわずか半年後の「DNA一致による」逮捕事件であったことから、慎重な吟味が必要だったにもかかわらず、それを怠ったと言われても仕方がないからだ。厳しい言い方だが、人生を踏みにじったと言われても仕方がない。確定判決後も、弁護人からの再鑑定を含めた再審請求(2002年12月)について、時効(2005年)をまたいで、再審棄却決定(2008年2月)まで6年もかかったのは、「放置」に近い状態であり、この間真犯人を裁く時効が成立するなど、宇都宮地裁の責任は重大である。この汚名返上名誉挽回には、やり直し裁判が好機であるととらえてほしい。

 「検察一体」が原則の検察側は、こうした事態に対して、ただちに、ほかの事件の再鑑定に備えた証拠保全の措置、本事件での捜査のあり方に問題はなかったかなど、検討する方針を打ち出している。再鑑定で真犯人のDNA型は確定している(ただし、時効は成立している)。これに対し、弁護側の合理的な根拠を示して再鑑定を求めていたのにもかかわらず、再審・再鑑定を長く「放置」してきた裁判所、特に再審請求に対して棄却決定するだけで6年も費やした宇都宮地裁がこの事態に対し、現時点では何ら反省なり所見を述べるなりの姿勢を社会に対して見せていない。これをもって「司法の独立」というならば、司法の独立とは、どこからも責任を問われない「司法の無責任体制」のこととなってしまう。独立には自浄能力を持ち合わせることが前提なのに、知らんぷりでは職務怠慢であろう。

 「疑わしきは裁判所の利益に」

ということにまでなりかねない。司法は独立であり、都合の悪いことは知らんぷりの「疑わしきは裁判官の利益に」とも言えるかもしれない。裁判員裁判は、こうした司法不信を払拭する役目も担っているようだ。裁判を裁判官だけに任せておけば、とんでもないことになるということの一面を足利事件確定判決後の裁判所の動きは示している。

 この事件で、高裁が再審を決定すれば、検察側が再審を受け入れることは確実。そうすると、確定判決を出した一審、宇都宮地裁でやり直しの審理が開始される。早ければ年内にも無罪判決が出て、確定する運びのようだ。

 今後注目される問題は、再審の場で、無罪の論告をする予定の検察や警察に対して、弁護側が求める自白に至った経緯を検証するため、取り調べをした警察官や検察官らの証人尋問を、宇都宮裁判所が認めるかどうかである。おそらく、裁判所は、その必要性はないとして却下した最近の富山強姦誤認逮捕事件同様、認めないであろう。被告人に対して、裁判官仲間として一審確定判決の誤りに対して、謝罪するかどうかも注目されるが、可能性は小さいだろう。

 裁判官にとって、検察側に不利益をもたらす決定をすることは、何の利益にもならない。出世の妨げになるだけであるからだ。たとえ、その結果が被告人に多大な不利益になったとしても、考慮外なのである(平たい言葉で言えば、そんなことは知ったこっちゃない、というわけだ)。ここでも、

「疑わしきは裁判官(と検察)の利益に」

の原則が裁判官を縛り付けている。「疑わしきは被告人の利益に」は、厳しい言い方だが、もはや死語になりつつある。何しろ検察が起訴した事件の99%以上は、有罪になっているのも、こうした背景があるからだ。出世をあきらめるなら別だが、この数字にあらがえる裁判官はほとんどいない。冤罪が増えているのも、裁判官は検察に不利益な決定、判決を出さないことと無縁ではない。

 願わくば、こうした批判に正面から答え、再審では宇都宮地裁は検察の論告求刑どおり無罪判決を出すのではなく、検察に遠慮せず、自らも自浄能力を発揮し、毅然とした決定や判決を出してほしい。そして、司法不信を払拭してほしい。再審をセレモニーにしてはならない。これが足利事件の教訓を生かす道だ。2009.06.07

 私が20年勤務した北國新聞社の6月5日付北國新聞社説は足利事件について、

 足利事件は「科学捜査にも『絶対』はありえず」(主見出し)という重い教訓を警察、さらには司法全体に突きつけた、としている。結びは、科学捜査で得られた犯人の手がかりに過度に依存せず、(ほかの)物証を幅広く集める地道な努力が大事である、となっている。穏当で、妥当な主張だろう。ただし、上記のことを考えると、もう一歩、突っ込み不足であることは否めない。

 足利事件/警察・検察、裁判所は謝罪を

 これが正解である。教訓の前に謝罪が必要だ。2009.06.08

 

 

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