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地方豪族の継体天皇、ヤマトを簒奪か  「昭和の日」に寄せて

 「昭和の日」ということで、継体天皇即位1500年にあたる2007年に放送され、ビデオに撮ってあったNHK番組「その時 歴史が動いた 継体天皇ヤマトを救う」を、先日、見てみた。日本書紀や古事記はいずれも、ヤマト政権のほうから、越前にいた継体天皇のところに使者を寄越して、崩御した武烈天皇に跡継ぎとなる皇子がないので、応神天皇の遠い子孫にあたる継体天皇に即位を促し、熟慮の末、継体天皇は受諾したことになっている。しかも即位は多くの豪族の総意であるとして即位をお願いしたいという体裁をとっている。

 しかし、番組を見た結論を先に言えば、507年の継体天皇の即位は、それまでとは血筋の異なる地方豪族による新王朝の樹立である。継体天皇は応神天皇につながる王族などではなく、もともと地方豪族だったであろう。地方豪族がヤマト政権を、政権の混乱に乗じて、奪い取って、継体天皇と称したというのが真相であろう。皇統として応神天皇につながるというのは、継体天皇即位後に、応神天皇から始まる「上宮記」などで権威付けのために「捏造」したものであろう。「継体」とわざわざつけたのも、裏を返せば、簒奪の革命家ではない、継承者であることを当時の豪族達に、あるいは後世に印象付け、政権の継承生と正当性を権威付けるためであっただろう。そもそも正当な継承者であったならば、そうする必要はなんらなかったはずだ。継体天皇以降は現在の今上天皇まで血筋的には繋がっていることは確かである。

 「その時」が言うような救ったのではなく、簒奪したと考える理由としては、即位が奈良・ヤマトではなく、現在の大阪府枚方市の樟葉(くずは)宮であったこと(ヤマトで即位すれば、反対する豪族勢力による暗殺の恐れもあっただろう)からだ。淀川の水運をうまく利用しながら、瀬戸内海を経て朝鮮半島の百済との交易、加耶の国の経営に当たったのであろう。その後、25年の治世のうち20年の長きにわたって樟葉宮で政治を司ったこと、継体天皇の陵墓が現在の大阪府高槻市の今城(いましろ)塚古墳に比定されていること、朝鮮半島情勢に詳しく鉄製品の入手、滋賀県北部の鉄鉱石や製鉄技術をもっていて、当時の豪族間の争いを鎮めるのに十分な実力を持っていたこと-などが挙げられる。

 その総決算が、九州の一大豪族、磐井氏との最終決戦であった。磐井の乱は、豪族同士の最後の決戦で、これに勝利し、継体天皇の地位は安定した。それはようやく継体天皇死去(531年、82歳)の五年前のことであった。この五年の間に、朝鮮半島の百済との友好関係を活用して、五経博士(政治顧問団兼軍事顧問団兼農業技術指導集団)を招請するなどして、国家統治の仕組み「屯倉(みやけ)」などの整備に当たった。屯倉とはヤマト政権の直轄地であり、服属させた地方豪族の監視機関である。国家理念として、儒教も取り入れていったことであろう。

 継体天皇自体は渡来系ではなかっただろうが、ブレインには、あるいは技術集団には渡来系がたくさんいたことは想像に難くない。このことは、朝鮮半島でよく出土する豪華品々が継体天皇の即位前の越前の古墳からも多く見つかることからわかる。

 こうした経緯を経て、継体天皇のひ孫、聖徳太子から、やがて天智天皇、天武天皇を経て、律令国家という中央政権国家が確立するまでの道が開けてきたのである。

 古代では、今以上に、日韓交流が盛んだったことをうかがわせる。2009.04.29

   参考文献

 『継体天皇即位1500年 大王がゆく』(福井新聞社、2007)

  『増訂 日本古代王朝史論序説』(水野祐、1953)=三王朝交替説、万世一系論の否定

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