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最高裁判決を読む 「疑わしきは裁判官の利益に」再考

  最後の最後で、最高裁は、冤罪を出してはならないという強い意志で、その良識を示したと言える。というのは、大学教授被告に痴漢逆転無罪の判決を最高裁は原審に差し戻さず、上告理由は見あたらないとしながらも、職権で自ら調査して無罪を言い渡したからであり、この点は特筆に値する。下級審ではなかなかできない「疑わしきは被告人の利益に」の原則を、最後の砦の最高裁は堅持した格好の判決であり、今後の痴漢犯罪捜査に大きな影響を与えるだろう。

 早速、最高検は、捜査の在り方を検討すると表明している。ただ、この判決も、裁判官五人は、多数意見三と反対意見二に分かれたというから、きわどい判決となったことは、判決自体は画期的ではなるが、これが定着するかどうか、これからの下級審の判決の様子を見極める必要はあろう。多数意見でも、犯罪が存在しなかったとまでは言っていない。多数意見の判決が言っているのは、これだけでは、真偽不明であるということなのだ。だから、「疑わしきは、云々で」で無罪としたのである。

 要するに、この種の犯罪のポイントは、

 痴漢された女性の供述の信用性

をどう見極めるかに掛かっている。今回は、途中で駅に下車して逃げる機会があったのに、再び、被告人の乗る車両に戻り、そばに来たという点が「いささか不自然」となって、唯一の証拠である供述の信用性に疑問がついたというわけだ。

 ただ、最高裁が痴漢事件に断を下したのは初めてである。しかも、差し戻さず、自ら真偽不明と考えるほかはないとして「無罪」を言い渡したことは、最高裁の最終審としての役割を果たしたと言えよう。

 そこで、教訓となる多数意見の近藤崇晴裁判官の補足意見要旨を抜き出してみる(4月15日付静岡新聞)。

 「被害者の供述するところはたやすく、これを信用し、被告人の供述するところは頭から疑ってかかるというようなことがないよう、厳に自戒する必要がある」

 先入観のない捜査、公判審理が求められるというわけだ。静岡新聞社説でも指摘されているところだが、判決のこの一節は重い。これは裁判官だけの自戒ではなく、検察、警察、さらには、被告人を弁護する立場の弁護人についてすら自戒すべきことであろう。2002年、富山県氷見市で起きた婦女暴行冤罪富山地裁判決(自暴自棄になった被告人は当初からの否認をあきらめ、痴漢を認め、その結果、有罪で服役。服役後、真犯人が別件で見つかり、やり直し裁判(再審)で検察側が『無罪』を求刑して、ようやく、無罪が最近確定した)では、弁護人すら被告人が痴漢をしたにちがいないと考えていた節があるという。

 このときも、今回も、唯一の物的証拠である下着の繊維が被疑者の両手についているかどうかのDNA鑑定結果が、証拠取りは行われたにもかかわらず、検察側からその結果も含めて証拠として提出されることはなかった。現在の刑事訴訟法では、提出するかどうか、それは検察側の判断に任されている。検察側にとって不利な証拠は積極的には、つまり、弁護側から請求があり、かつ、裁判所が認めない限り、公判に提出する義務がない。この検察側の便宜主義が冤罪を生むひとつの仕組みとなっている。2009.04.17 

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