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不尽山はいつから「富士山」になったか 観光地ミシュランの三ツ星考

 フランス人、というかヨーロッパの人々に日本へ行ったら、一度は訪れてみたい観光地を三ランク(最高は三ツ星)に評価し、紹介したフランスのガイドブック「ミシュランのギード・ベール」日本版が初めて先日、発行された。最高の三ツ星には、富士山、兼六園、伊勢神宮など56カ所が選ばれた。ミシュランの「ギード・ベール」は、ヨーロッパでは有名なガイドブックだそうだ。

 偶然だが、富士山をいつごろから「富士山」と呼ぶようになったか、という面白そうな講演会が、静岡市内の「グランシップ」で3月15日に開かれた。万葉集を手がかりにしたもので、好天に恵まれたこともあって、出かけてみた。講師は日本大学の梶川信行教授で、万葉集研究で知られる。この講演の結論を先に言ってしまえば、

 平安時代後期

である。「富士」という表記は八世紀初めに出来上がった万葉集(8世紀後半に成立)には見えない。もっぱら、「不尽山」と歌われている。これは、当時、富士山は盛んに噴火を繰り返しており、梶川教授によると、「神代の時代から活動を続ける永遠に命の尽きない山」=不尽山だった。それが、時代が下り、平安後期=古今和歌集(905年)になると、人知れぬ 思ひをつねに 駿河なる 富士の山こそ わが身なりけり、というように「富士」の表記が出てくる。この頃になると、富士山の活動もおさまっており、その秀麗さに関心が集まったようだ。

 それが「日本一の山、富士山」と言われるようになったのは、富士山が間近に見えて、しかも政治の中心が江戸になってからである。とりわけ、東海道名所図絵など、出版の中心も江戸になった1700年前後から富士山は「日本一の山、富士山」と一般にも考えられるようになり、定着したといえそうだ。したがって、

 富士山はいつ生まれたか

という問いの答えは、江戸中期の1700年前後からであるということになる。これが歌集などからの結論である。わずかこの300年なのである。しかし、官人などが扱う行政文書、たとえば、『続日本紀』(789年)には、「富士山の下に灰を雨らせり」という表記があることから、行政的には「富士山」は奈良時代にすでに使われていたというべきであろう。奈良時代の考古学的な遺跡からも「富士」という表記があるらしい。

 富士山の見えない奈良にいた官人は、地元の人たちが美称としていた「富士」を使っていたが、現場に行って歌を読んだ歌人は、火を吹き上げるその姿の荒々しさから「不尽山」を使っていたのではないかというのが私の講演を聞いた感想である。

 このように、万葉集を読むにしても、現代人の感覚で解釈したりすべきではないことがわかる。歌が詠まれたその時代の自然環境や社会環境を十分踏まえて、その上に立って解釈することが大事である。こんなことは当然であると思っていたら、梶川教授によると、万葉集研究の大家である佐佐木信綱氏のような人でも、万葉集評釈で「富士の崇高雄大はよく描かれてをる」と誤った認識の上に評釈している。このことから、結論付けられることは、万葉集など日本の古典文学を読むことは、実は、異文化を理解しようという試みであり、今の日本人の心の源流ではあっても、決してそのまま今と同じものではないということに注意する必要がある。背景やそこに至る歴史を十分知った上で、解釈したり、評釈する必要があるのである。

 田児の浦ゆ うち出でて見れば ま白にそ 不尽の高嶺に 雪は降りける(山部赤人)

 この場合の「田児の浦」とは、現在の静岡県富士市の田子の浦港(富士山の真南、駿河湾の最奥部)の一角だとされている。そこには、この歌碑が建っている。

 

 

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