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2009年3月

広告戦略  講談社の場合

 新聞を読むという場合、大抵の人は、事件や政治、経済などの新聞記事のことを指すことがほとんどだろう。しかし、広告も面白い。面白いというのは、その内容ではなく、掲載のされ方のことだ。具体的に言うと、年度末の3月31日付の全国紙、ブロック紙、県紙には、今年100周年を迎える講談社が一斉広告「創業100周年」のワッペンを付けて掲載している。ところが、どれも、第3頁目に全5段で掲載されている点は同じなのだが、新刊案内の本の書名がみんな違うのだ。具体的に紹介すると、

3月31日付朝日新聞(第3頁、全5段)    国家に人生を奪われた男の告白『汚名』鈴木宗男(元内閣官房副長官)/衝撃! 現役キャリア官僚が告発!『厚生労働省崩壊』木村盛世(医師・厚生労働医系技官)/参議院予算委員会で問題に!!カルト化する「池田教」の全貌に迫る!『黒い手帳 創価学会「日本占領計画」の全記録』矢野じゅん也(元公明党委員長)/朝日新聞3月22日社会面で報道!自衛隊は北朝鮮テポドン2を落とせるのか『自衛隊はどこまで強いのか』田母神俊雄(前航空幕僚長)・潮匡人(まさと、元三等空佐)

などなど。このほか、やわらかい本の書名も紹介されている。ところが、これが、同じ日の読売新聞の第3頁目に掲載された講談社「創業100周年」広告では、全5段ではあるが、内容が全然違う。

 3月31日付読売新聞(第3頁、全5段)  テレビでは言えなかったこれが「真実の人生」『素晴らしき、この人生』はるな愛/ 「人は見た目」時代の「オシャレ」と「生き方」『されど「服」で人生は変わる』齋藤薫/過去のすべてのプロレス作品を凌駕する最高傑作『ある悪役レスラーの懺悔』関川哲夫

 などなど。あとはやわらかい書名がこまごまと掲載されている。この「朝日」と「読売」の違いは何だ、と考え込んでしまう。ちなみに、毎日新聞、日経新聞には前日も含めて講談社100周年広告はない。ただ、ブロック紙、と県紙(地方紙)の静岡新聞の第三頁には、講談社100周年全5段広告が掲載されているが、これまた、上記とは書名が全然違う。こうだ。

 3月31日付静岡新聞/中日新聞(第3頁、全5段) 大化の改新、太平洋戦争、現在を繋ぐ歴史ミステリー『非運の王子と若き天才の死』西村京太郎/ 一途に想う江戸の女たちを描く作品集『富子すきすき』宇江佐真理/右肩は、下げたフリ。こんなご時世に、元気になれる最新刊!『女も、不況?』酒井順子/伝統があるから名門なのではない『名門高校 ライバル物語』宮島英紀・小島敦子/20年間無敗、伝説の雀鬼の「人間観察力」『人を見抜く技術』桜井章一

 など。あとはひめくり万葉カレンダーなどやわらかいものが少しだけ掲載されている。

 こうした広告掲載の状況をつぶさに見ていると、出版社は新聞広告を打つにあたって、掲載紙の特徴、紙価、評判などを出版社なりに分析して、読者層を割り出し、それにあった効果のある広告戦略を練っていることがうかがえる。 

  ここから見えてくるのは、新聞は1紙だけ読んでいたのでは、「真実」は分からないということだ。 2009.03.31

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ざんげの値打ち 資本主義はなぜ自壊?

「あれは二月の 寒い夜」で始まる北原ミレイの「ざんげの値打ちもない」ではないが、最近のこの大不況で、ざんげの値打ちもないエコノミスト、経済学者の手のひらを返したような経済書が本屋の店頭に押し合いへし合いしながら並んでいる。うんざりである。景気が良くなれば、また、手のひらを返したように、バスに乗り遅れるなとばかり、時流に乗った本を書き殴る。これまた目に見えるようで、うんざりである。まるで、

 余の経済書には、懺悔([ざんげ)という言葉はない

とでも言いたげで、不遜で、無節操だ。そんな中、経済理論が専門で、功成り名を遂げた経済学者が、ひとり最近、書き下ろしで

 『資本主義はなぜ自壊したのか』(集英社)

というタイトルで「懺悔の書」を上梓している。中谷巌氏である。今、自壊し始めた理由を先に言ってしまえば、すべては自己責任において市場原理に委ねるという新自由主義の思想に、中谷氏を始め、だれもかれもがかぶれた揚げ句、グローバル資本主義という手に負えないモンスターが徘徊し始めたからだという。このモンスターに対抗できる、いわゆる「天敵」はもはやおらず、世界経済の不安定化、経済格差の拡大化、地球環境破壊の深刻化という副作用が取り返しがきかないまでに増幅されようとしており、世界経済は自壊し始めていると中谷氏は言う。中谷氏の経歴は、

 一橋大学経済学部を卒業後、日産自動車入社、米ハーバード大大学院経済学研究科博士課程を修了、大阪大助教授、一橋大教授、ソニー取締役、多摩大教授、三菱UFJリサーチ&コンサルティング理事長、多摩大学長、全国社外取締役ネットワーク代表、一橋大名誉教授。著書も、一般書だけでも『痛快!経済学』、『入門マクロ経済学』『eエコノミーの衝撃』、『プロになるならこれをやれ』、『次世代リーダー学』、『プロになるための経済学的思考法』、『愚直に実行せよ 人と組織を動かすリーダー論』。受賞歴では石橋湛山賞。

 となっているから、若き日のアメリカでの研究、そして豊かな生活経験を考えると、同氏がアメリカかぶれになるのも無理はない。経済理論学者として当然持ち合わせていなければならないアメリカ経済を客観視できる目、批判する目が失われていたのである。

 だから、モンスターに天敵がいないということを認識するならば、人々の手で怪物の動きを拘束する何らかの有効な鎖を作り上げることができるかもしれないと、懺悔の書を締めくくっている。要するに、欲望の肥大化に対して自制する精神を持つ努力をすることがこれからの行動原理であるとしている。

 こうした懺悔の書を書くようになったのには、「キューバ社会は貧しいながらも一体感を持ち、キューバの人々が生活に満足を覚えている」という中谷氏の分析がある。医療制度などを通じてキューバ国民は社会的なつながりを維持している。「キューバが医療立国を目指した根底には、キューバ社会全体の一体感、幸福感を高める狙いがあった」という。たとえ、病気になったとしても、社会から見捨てられることはないという安心感が社会を貧しいながらも安定化させた。アメリカはキューバの数十倍の国民一人あたりの国民所得を持ちながら、国民皆保制度がないのとは対照的であると中谷氏は指摘する。

 自壊を押しとどめるには、自由の一部を統制に委ねる覚悟が必要であり、欲望の肥大化に歯止めを掛ける自制の精神を持つように努力することがこれからの行動原理だと最後の部分で中谷氏は提言している。

 自由には責任が伴うという当然の倫理感を忘れたところに、資本主義が自壊を招いた原因があるというのが私の意見である。以前にもこの欄で書いたが、アメリカにはヨーロッパの騎士道精神、日本のような武士道精神という倫理観がなかったことが資本主義の暴走を許したと思う。こうした倫理観は、主従関係で成り立つ封建制度の中で育まれ、高信頼社会を形成する。アメリカには高信頼社会の基盤がなかった。それと、中谷氏は、自由を一部統制に委ねる覚悟が必要だとしている。しかし、まさか、社会主義計画経済に戻れと言っているわけではあるまい。また、キューバをみならえというわけでもあるまい。具体的なヒントがこの懺悔の書にないのは残念である。

 中谷氏の懺悔の書にはサブタイトルとして「『日本』再生への提言」と書かれている。失われはじめた社会の一体感を取り戻し、将来への不安感を払拭するには、基礎年金の財源を税方式にすることだと提言している。そのほか、日本経済再生のカギは、国ではなく、地方分権であるなど、これまでに散々言い旧されてきたことが列べられており、新味に欠ける。日本再生の提言とサブタイトルをつけるほどのものではないと思う。

 中谷氏は、戦前痛烈に資本主義を批判したカール・ポラニーの『大転換』を引用し、資本主義とは社会を分断させる「悪魔のひき臼」と書いている。再生不可能なことから、本来取引対象とはならないはずの労働、土地、貨幣(疑似貨幣としての有価証券を含む)を取引対象として市場という「ひき臼」ですりつぶしたという。それを天使のひき臼にするにはどうすればいいのか、労働、土地、貨幣それぞれについて、グローバル資本主義者から「転向」するにあたって理論経済学者らしい提言がもっとあっていい。

 反省するだけなら、サル、いや、これからの転向者としての中谷氏の本格的な提言を期待する。2009.03.30

 

 

 

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花はさくら木 人は武士  桜木考

 「花はさくら木、人は武士」ということで、年度末の陽気に誘われて、浜松城公園(浜松市中区)の花見に出かけた。天守台真下の本丸跡では、家族連れ、近所連れの花見客が大勢いて、にぎわっていた。花は五分咲きくらいで、四月上旬が満開であろう。いずれも明治以降に植えられた、あるいは戦後に植えられたソメイヨシノであろう。この桜木の寿命というのは、一説に60年ぐらいとされている。しかし、120年ぐらいは大丈夫、花も咲くという。青森県弘前市の弘前公園のソメイヨシノは樹齢120年をこえた今も立派に花が咲く。

 そんなことをさくらの下で考えていたら、「日本三大桜」というのがあるそうだ。山高神代桜(エドヒガン、樹齢約2000年、山梨県北杜市)、三春滝桜(ベニシダレ、樹齢約1000年、福島県三春町)、薄墨桜(ムレヒガン/ウバヒガン/エドヒガン、樹齢約1500年、岐阜県本巣市根尾谷)である。弥生時代人や平安時代の人も、見ようと思ったら見ることができた桜木である。いずれも今も花を咲かせているのだから、その生命力はすごい。新品種のソメイヨシノではそうはいかない。

 浜松城公園内にある浜松市美術館に久しぶりにのぞいて見た。静かな館内では「季節を描く日本画展」が開かれていた。浜松市出身の日本画家、栗原幸彦氏の見事な老木桜「爛春(らんしゅん)」(2007年)が展示されていた。バックは黒。そこに浮かび上がった無数の淡いピンクの五弁の花びら。縦二メートルくらい、横三メートルくらいの紙カンバスに描かれており、迫力十分である。薄墨桜を想像させる。おそらく「夜桜」のイメージであろう。これを見ていると、動物に比べて、なんと植物の生命力は長く、しかも強いのだろうという感慨に浸ることができる。永遠の命を宿しているとさえ思える圧倒さがある。この絵を見ていると、永遠の時を生き続ける桜木の力強さを感じざるを得ない。

 そんな豪華な絵画を楽しんだ後、静岡新聞夕刊(3月26日付、土曜日)を見ていたら、囲み記事に、首都ワシントンで、恒例の桜祭りがポトマック川のほとりの桜並木で開かれたというニュースが出ていた。あちらも、桜の開花は平年並みで五分咲きだという。この桜は、富山県高岡市出身で石川県金沢市にもゆかりのある高峰譲吉博士が日米親善の証として1912年に贈呈したものであることを知っている人は、もう少なくなっている。 

 蛇足。

 浜松城天守台真下の本丸石垣に囲まれるようにして、ひっそりとたっている石碑を見つけた。石碑にはこう刻まれている。

 「朝日両国永久親善萬歳 朝鮮民主主義人民共和国 帰國記念植樹 一九五九年十二月 在浜松朝鮮公民一同」

 今から、ちょうど五十年前、ここには、「平和で天国のような」北朝鮮に帰ろうという運動の中で、北朝鮮に喜び勇んで帰っていった人たちの願いが込められている。しかし、今、その北朝鮮から、人工衛星を上げるのだと言って、弾道ミサイルを日本上空に発射しようとしている。航空自衛隊浜松基地からは、もしもの事態に備えてミサイルを打ち落とせるよう、パトリオット(PAC3)部隊が車列を組んで、軌道直下にあたる秋田県に向かおうとしている。

 歴史はかくも非情である。数千年の歴史を超然として見続けてきた桜木。今、何を思っているのだろうか。 

  浜松は出世城なり 初かつを (花の舞) 2009.03.29

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勝因は「運」  W杯サッカーアジア最終予選

 「運よく入った」。3月28日土曜日、埼玉スタジアムでW杯アジア最終予選のバーレーン戦に辛勝(1-0)して、思わずもらした岡田武史代表監督の感想というか、本音だろう。これが決勝点となった。MFの中村俊輔のゴール真正面からのフリー・キックが、相手選手の頭に当たり、球筋がそれて、相手のGKの頭上わずか上を通り、ゴールネットに入った瞬間の様子を語ったものだ。

 裏を返せば、何度も得点のチャンスはあったのに、そして、ボールを支配していた時間は相手よりかなり長時間だったのに、なかなか点には結びつかなかった。一言で言えば、辛口解説で知られる実況解説のセルジオ越後氏が嘆いていたように、日本の決定力不足ということだろう。攻めあぐんでいるのだ。元気な若手がいないからだろう。これに対して、相手には、たとえば、GKはなんと24歳だというのだから、たまらない。これを裏付けるように、試合後の岡田監督も「セットプレーで点が取れればと思っていた」というのだから、ちょっと情けない。

 しかし、運も実力のうちだ。「勝因は運」という場合もあっていい。準備のできていない人にはたとえ、運がめぐってきていても、呼び込むことはできないからだ。この点については、今回の中村俊輔しかり、先のWBCの決勝日韓戦の延長戦でのイチローの一振りしかりなのである。こういうのを「土壇場の本領」という。

 それにしても、FW陣に元気な若手がほしい。それと、この試合に、わが地元、ジュビロ磐田の選手が一人も出場していないというのはいかにも寂しい。若手を早く育ててほしい。これは監督の責任というよりは、フロントの責任だと思う。

 これで、この組では、首位の日本と二位につけている強豪、オーストラリアが本大会(南ア)に出場することがほぼ固まったようだ。決定は、6月6日のウズベキスタンで勝つことだ。

 ところで、誰にも聞けない質問だが、バーレーンってどの辺にある国か、知ってますか? また、ウズベキスタンってどこにあるのかな?  なに、バーレーン人だって、ウズベキスタン人だって、日本がどこにあるか、サッカー関係者を除けば、知っている人はほとんどいないように思う。2009.03.29

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覚悟 失うと分かったものしか愛せない

 日ごろは、ほとんど週刊誌は買わない。しかし、たまには気まぐれで身銭を切って、週刊誌を買うことがある。興味がある記事が出ているからという理由ではない。通勤している浜松-静岡の新幹線の時間つぶし(20分)のためである。だから、大見出しの記事は読まずに、広告、べた記事を何気なく読む。そして、誰もが見過ごしてしまいそうな、しかし、面白い小さな記事を見つけたときにはうれしくなる。ビリビリとその部分を破り取り、ポケットにしまう。これで「コラムが書けた」と思うと得をした気分になるのだ。それはまた20分間でそんな記事を必ず見つけ出す訓練となり、社会を見る目、感覚を養い、磨くことにもつながる。

 そんなつもりで、『週刊新潮』4月2日号春季特大号 特別定価350円

を買って見た。残念ながら、そんな記事は見つからず、駅に着いたら捨てようと思っていた矢先、美しいカラー見開き広告を見つけた。こうだ。

 「覚悟」である。五木寛之 人間の覚悟 新潮新書

 自社広告にろくなものはない、という先入観から、はなから無視していた。売れているそうである。32万部突破と赤文字で大きく刷られている。もちろん、ウソだろう。それはともかく、この広告には、買ってもらうために、十九のポイントを一文=十五文字で列挙している。詳しくは、本書を買ってくださいというわけだ。しかし、私は買うつもりはなく、これらを分析し、自分なりに以下のように考えてみた。車内20分間の訓練である。

 ○ 国は最後まで国民を守りはしない。これは著者、五木さんが終戦時大陸から引き  上げて来た時に、多感な少年として道すがら見てきた悲惨極まる体験からの覚悟であろう。「飢えた大人ほど恐ろしいものはない」。これが五木さんの偽らざる原体験だ。ここから出た言葉、覚悟だけに重い言葉だ。

 ○ 統計や数字より自分の感覚が大切。作家としては当然の覚悟だが、科学ジャーナリストにとっても、平均値からは生きた実像は見えてこないと覚悟すべきであるという意味で、正しい覚悟だろう。

 ○ 人生からは決して鬱は取り去れない。鬱とは、晴ればれとしない状態、あるいは、気のふさぐことという意味である。そう覚悟を決めれば、うつ病も少しは減るかもしれない。

 ○ 「夢」の多くはむくわれないもの。妖怪漫画家の水木しげる氏は、「努力は人を裏切ると心得よ」と言っていることに通じる。五木さんの場合も、『TARIKI(他力)』 としてわざわざ一流の翻訳家に英訳させて、ノーベル文学賞を意識して、コロンビア大学でお披露目をしたが、その夢は簡単ではないだろう。努力は五木さんを裏切るだろう。

 ○ 信じる、疑う、両方を握り締める。信じることから始まる宗教、疑うことから始まる科学。社会はこの二つから成り立っていると喝破した五木さんの眼力はさすがである。

 ○ 善行も、愛も多くはむくわれない。報われなくても後悔しないから、善行であり、愛なのだろう。見返りのある善行、見返りのある愛があまりに今の世には多すぎる。

 ○ 失うと分かったものしか愛せない。二兎どころか三兎も四兎も追わなければ一兎をも覚束ないと説く近著『欲情の作法』(幻冬舎)の作家、渡辺淳一も脱帽の覚悟である。この伝で言えば、漫才タレント、陣内智則が、女優の藤原紀香とスピード離婚したのも、まさにこれだ。陣内は、自分の浮気により、失うと分かっていたからこそ、紀香を愛したのだという屁理屈になる。愛するためには、浮気をしなければならないというわけだ。愛はかくも不可思議なものなのかもしれない。この覚悟は、不倫道の覚悟だと言えるだろう。失うと分かったものしか愛せないのだから。ただ、渡辺淳一の小説の場合、不倫道とは、二人で死ぬことと見つけたり、というパターンであり、このところが、五木さんの不倫道の覚悟とは異なる。

 本を買わなくなってしまわないように、これくらいにしておく。広告には、「ここにある『覚悟』のどれかひとつを胸に、一日を過ごしてください」となっている。 

 私の覚悟は、定価714円(税込)のこの本を買わないというものだ。なぜか。『風に吹かれて』の悩み多き五木寛之は、もはやここにはないからだ。そして、後期高齢者の仲間入りをし、今年「喜寿」を迎えた著者の安住の姿がこの本にはあるからだ。私には、失ってしまったものは、愛せない。2009.03.28

 

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新聞の写真  人には聞けない話  

 新聞記事には写真が付いているものもあり、付いていない記事もある。大抵の読者はこの記事にはなぜ写真が付いているのだろうか、などとは考えない。どんな記事にも写真が付いていれば、百聞は一見に如かず、でますます良い新聞だと考える人も多いだろう。こんな写真を掲載しては、まずいのではないか、と思うような写真が3月26日付中日新聞に載っている。別に新聞社が悪いというのではない。記事はベタであるが、写真は立派なのだ。

 「世界最先端」の米戦闘機が墜落/ステルス性能登載

という記事であり、米国防省が発表した、いわゆる「発表もの」だ。掲載されている写真は、前後に並んで飛行している開発中の戦闘機二機が前方上空から撮影されている。国防省が報道機関に提供したものに違いない。斬新というか、相手のレーダーに捕捉されないためのステルス性を登載するためか、通常の戦闘機のイメージとはかなり異なる戦闘機である。ずんぐりというかグロテスクという印象もある。そんな開発中の、国家機密、あるいは安全保障上も重要な戦闘機の写真をわさわざ国防省が開発中に公開する、しかも事故を起こした時に公開する意図は何だろうか。

 写真では外見だけしかわからないとしても、航空軍事専門家が見れば、おおよその性能や機能がわかるだろう。しかも墜落したというから、その原因には外観が関係あるのかどうか、専門家なら推定ができるように思う。

 一つ考えられるのは、開発が難航し、より多くの予算が必要になり、開発予算を獲得するために公開したという理由だ。しかし、逆に巨費を投じている戦闘機(一機140億円)の開発中止の世論が巻き起こるかも知れないというリスクがある。今回の事故は二回目ということだから、余計に開発中止の世論が起きるリスクは高くなりそうだ。それに、公開するとしても、それは開発成功のタイミングであろう。

 この人には聞けない写真の謎に、誰か、答えてくれる人はいないものだろうか。2009.03.27

 

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DNA捜査万能論に冷や水 

 中日新聞夕刊(3月26日付)に、

 DNA 犯罪立証できず

という面白い囲み記事が出ていた。その心はというと、一卵性双生児が犯罪にかかわった場合であったからだ。これだと、何カ所かに設定されている個人識別部分のDNA塩基配列も同一となり、新兵器も威力が発揮できないというわけだ。6億円宝石泥棒の容疑者が現場に残した手袋から採取したDNAから双子を容疑者として逮捕したまでは良かった。さて、どちらかという段になって、捜査当局ははたと困ったというわけだ。二人の犯行なのか、それともどちらか一方の犯行なのか、容疑者の特定ができず、結局、警察は双子の二人ともを釈放したと伝えている。

 一卵性双生児でも、指紋は異なる。だから、指紋が手袋から採取されていれば、双子のどちらかなのか、判定できたという。血液鑑定でも、最近では、ABO型のほか30種類以上もあり、それらを組み合わせれば、犯人の特定はできる。

 犯罪捜査は次第に最先端のDNA鑑定で個人識別するようになってきたが、まだまだ老兵の血液型、指紋鑑定などの活躍する場がありそうだ。2009.03.27

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目からウロコ なるほど1万人マラソンの「ネットタイム」

 世の中には、テレビを見ていて、とても不思議なことなのに、なぜだろうと疑問すら持たないような光景がある。その一つが、千人、一万人マラソン、あるいは、三万人以上も出場する東京マラソンのスタート光景だ。当然スタートラインの後ろにこれだけの人が並ぶわけだが、少しでもスタートライン近くに並んでタイムを良くしようと、ランナーなら誰しも思うはずだ。選手同士が押し合いへし合い、号砲直前ともなれば、場所取りでけんかのひとつも起こりそうなのに、そんなことはない。のんびりしている。さすが、スポーツを愛好する人は、正々堂々、スタートラインから、五、六十メートル後ろからスタートして、少し損をしても、そんなことにはこだわらない。スポーツマンとは、かくも心が広く、礼儀正しいのだ。そう思っていた。

 ところが、そうではないのだ。どの選手も、一秒でも良いタイムを出そう、一秒でも、ほかの出場者より早くゴールを目指そうとしているのだ。号砲一発、スタートラインの最前列の選手も、ずっと後ろののんびり選手も、平等にタイムが正確に計れるというのだ。そんなばかなと思うかもしれない。そのわけと、仕組みの概要について、3月26日付中日新聞夕刊コラム「紙つぶて」に下条由紀子「ランナーズ」編集長が書いている。それを読んで目からウロコが落ちた。

 その仕掛けとは、走る仲間のウェブサイト「RUNNET」によると、出場者の履く靴に付ける五百円玉くらいの大きさのプラスチック製小型発信器にある。RCチップというのだそうだ。ランナーズ・チャンピオン・チップの略。コレを靴ひもに結びつける。雨でも風でも、泥にも強いチップという。この中に、選手の背番号に当たる情報がICチップの形で埋め込まれている。選手がスタートラインのまえに敷かれている(赤い)ジュータンを通過すると、ジュータンから出ている電波がチップ情報を読み取り、同時に、その時刻を記録する。ゴールでも同じことをして、その差からそれぞれの選手の正味の「ネットタイム」を瞬時に弾き出すというわけだ。伊達に、スタートライン、ゴールラインにジュータンが敷いてあるわけではないのだ。これだと、五キロ地点、十キロ地点、二十キロ地点のネットタイムが、何千人、何万人が出場していようとも、瞬時に記録できそうだ。途中棄権者もゴールのジュータンを通過していないことから、直ちにわかる。

 コラムにはここまで詳しく解説されてはいないが、「今では多くの大会でネットタイムは公式記録証にも明示されるようになった」と書いている。このすぐれものがないと、選手個人が自分の腕時計(または、ストップウォッチ)で正味の「ネットタイム」を計算することになる。これは、もちろん、公式記録としては認定されまい。2009.03.27

 もちろん、こうしたすぐれもののチップは、いろいろなメーカーのものがあり、とくに優れたものは、それぞれの主催者によって公認されているらしい。

 

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オーマイガッド!  ネット新聞「オーマイニュース」の廃刊

 二年半ほど前、鳴り物入りで毎日新聞出身の鳥越俊太郎氏が初代編集長になってスタートしたインターネット新聞「オーマイニュース日本語版」(オーマイニュース社)が来月下旬に「廃刊」される。「市民みんなが記者」の旗印の下、もともと韓国で発足。廃刊の理由は、これまた世界的な景気後退に伴う「広告収入の大幅減少」だという。二代目編集長は体調不良を理由に退いた鳥越氏に代わって、元「週刊現代」編集長。ただ、本家の韓国(韓国語版)では発刊は続けられるという。英語版も続けられているという。

 一週間程度の簡単な記者教育を受けて、市民がニュースを掘り起こすというものだが、批判精神を持ってありきたりではない出来事を見つけ出し、それを達意の文章にしなければならないジャーナリストがそう簡単に養成できるものではないことを如実に示した。市民ジャーナリズムとか、パブリック・ジャーナリズムとは言っても、なかなか職業ジャーナリストに太刀打ちするのは難しい。競争するのではなく、独自の特徴を打ち出す、例えば、地域の問題を市民記者とともに考え、解決するタイプのジャーナリズムなど、有効な視点が要る。

 この二年半で、ブログ炎上ならぬ「ネット炎上」を「嫌韓」問題などで引き起こすなど、本家・韓国対分家・日本の間でトラブルが続いていた。鳥越氏の体調不良もこうしたトラブルとは無縁ではないだろう。

 また、世界的な景気後退前、すでに、日本にも市民ジャーナリズムの確立を目指す当初の目的は放棄されており、記事内容も学校の「感想文」程度のものになり、とてもニュースとは言えないものになっていたことを考えると、景気後退を口実にしたこれ幸いの廃刊、撤退であろう。 2009.03.26

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静岡県知事が辞職表明 「君子は豹変す」対「トカゲのしっぽ切り」

 静岡県の石川嘉延知事が、県庁で記者会見し、静岡空港の立ち木問題で、完全開港の障害となっている伐採の条件として地権者が申し入れていた知事辞職要求について、「申し入れを受け入れる」と述べ、辞職する意向を表明した=3月25日付静岡新聞夕刊。

 翌日の静岡新聞の朝刊には、会見での質疑応答の詳報が掲載されている。その中に、こんな個所がある。

 -これまで、辞任はない、(立ち木のある土地の地権者の)大井(寿生(としお)=島田市)さんとの交渉でも辞める意思はないと説明してきた。

 知事 変心したことは悪いですか。君子はひょう変しますよ。そういう冗談めかしたことはさておき-

 というやりとりがある。冗談とはいえ、自分を「君子」になぞらえたのは、ちょっと不遜ではないか。まして記者会見での発言としては、冗談だとしても適切を欠くのではないか。君子は豹変す、というのは、通常、トップ以外が使う言葉であり、トップ自ら自分を指して使うのは異例だ。 

 一方、知事が辞職する旨の書面を静岡県職員たちから手渡された大井さんも、「考えます」とした上で、立ち木の除去に応じる環境が整ったと述べ、伐採に向けた協議に応じる意向を示した。その中で、3月26日付毎日新聞朝刊(竹地広憲記者)では、大井さんは、

「組織の体質が変わるためのきっかけとして辞職を求めた。知事の辞職が、トカゲのしっぽ切りにならず、行政組織そのものが変わらないといけない」

と述べたとなっている。ただし、静岡新聞、読売新聞、朝日新聞には、似たような趣旨の発言は掲載しているが、「トカゲのしっぽ切り」という直截な表現はない。不適切としてカットしたのだろう。静岡新聞では「トップが変わることで、測量ミスなどの間違いを押し通そうとした県の体質も変わってほしい」となっている。

 知事は自分のことを(冗談とはいえ)「君子」になぞらえ、もう一方の当事者の地権者は、知事のことを「トカゲのしっぽ」となぞらえている。これまた、知事の存在をないがしろにした不適切な表現ではなかろうか。県知事はあくまで首長であり、しっぽではない。これを言うなら、「知事の辞職が、首のすげ替えだけに終わらせず、行政組織そのものが変わらなければいけない」と言うべきだったのではないか。

 こうしたやりとりのちぐはぐさからも、互いの間に信頼関係が完全に失われていることを十分にうかがわせる。2009.03.26

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『黒い樹氷』  南国に黒い雨が降る越境汚染 

 こういう地方からのドキュメンタリー番組こそ、ほかの地方でも放送してもらいたいと思う。そんな番組が、第50回科学技術映像祭(日本科学技術振興財団主催)で最優秀科学技術映像賞となった。3月26日付「毎日新聞」朝刊、ベタ扱いで小さく出ている。

 『黒い樹氷 自然からの警告』(RKB毎日放送=福岡市)  2008年12月放映

 「黒い樹氷」は、「大陸から吹く風に乗って有害物質が国内に飛来し、長崎・雲仙普賢岳の樹氷など自然界が汚染されている実態を報告した」。こうした国境を越えた、いわゆる越境汚染について、番組は一年以上に及び、丹念な取材を行っている。

 最近、環境省も沖縄本島(辺戸岬=へどみさき)で、大陸から有害な重金属、水銀が飛来している実態を同省ホームページで公表している。静岡新聞でも、3月23日付で報道している=共同。こうした問題は、本州にも黄砂が飛来することが春先にはしばしばあり、他人事ではない。決して、西日本問題として片付けてしまってはなるまい。 2009.03.26

  内閣総理大臣賞の「黒い樹氷」は、今後、全国13都市の科学館などで上映される。問い合わせは日本科学技術振興財団(03-3212-8487)

 

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WBC  さすが戦略家カストロの日韓戦分析

 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で、優勝した日本の勝因分析は日本、韓国いずれの国にも数多くあれど、おか目八目 とでもいうのだろうか、日韓スポーツ関係者よりも、キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長の分析が一番納得できた。さすが稀代の革命戦略家であり、いまや一線を退いたとはいえ、鋭い。戦う者の心理にまで踏み込んで分析している。短い囲み記事が「GLOBAL FLASH」(3月26日付静岡新聞)に次のように、ハバナ共同電として掲載されている。要約すると、

 日本が韓国を破って優勝した野球のWBCの決勝について、前議長は「韓国は、日本に二回勝利した投手を使う誘惑に抵抗できなかった」と指摘。しかし、同投手は「日本の専門家や打者に研究されてしまっていた」と、韓国の敗因を分析した。これに対し「日本の監督は投手の選択を間違えなかった」と評価した。

 確かに、韓国は日本戦に二度先発し、二勝を挙げている奉重根投手を先発させている。三回に一点を奪われている。これに対し、日本は安定感のある岩隈久志投手を先発させ、ダルビッシュへと継投した。北京五輪金メダリストの韓国としては、屈辱の敗北であろうが、決勝戦では延長戦にまで縺れこんで、最後まで試合を捨てなかったのはさすがであった。恐るべし、韓国野球である。

 ただ、私の意見としては、日本が優勝できた原因を挙げるとすれば、決勝戦の戦い方よりも、むしろ、そこに至る

 敗者復活戦を勝ち抜いて決勝戦に臨んだことにある

 と考えたい。準決勝で負けたことが、優勝に繋がった、そう考えたい。負けて勝つ。かつて、東洋紡のバレー部「廃止」から這い上がった柳本晶一・日本女子バレー代表監督が、あるインタビューで、勝負とは、と聞かれて

「負け、勝ちである」

と答えていた。その心は、負けた試合から次につながる糧をどれだけ引きだせるかで勝負が決まるということらしい。敗者復活戦に回ったとき、原監督は、後ろ向きのことは考えない、前向きで戦おうと選手を奮い立たそうとしていた。そこから、運を引き寄せたのではないか。逆境をくぐり抜けてきたチーム、集団は強い。この「負け、勝ちである」からすると、韓国の場合、二戦とも勝った投手ではなく、日本に負けた二戦の敗因分析に基づいた投手起用を行い、決勝戦に臨むべきだったことになる。

 家康も、「遺訓」で「勝事ばかり知りて負ける事を知らざれば害其の身に至る」と書いている。韓国は一次ラウンドで敗者復活戦を勝ち抜いているし、日本も上位の第二ラウンドで敗者復活戦を勝ち上がっている。我、彼のこのわずかの差が決勝戦の延長戦に出たのかも知れない。それにしても、土壇場でのイチローの決定的な適時打には驚くしかない。「土壇場の本領」と言ったところだろう。それにしても強運の持ち主である。 2009.03.26

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政治家の資質  情熱 責任感 判断力

 空港立木問題の責任をとって石川嘉延・静岡県知事が辞職表明した日、静岡市内のホテルで、静岡政経研究会の講演会が開かれるというので、出掛けた。共同通信社の西川(さいかわ)孝純・論説委員長(新潟県柏崎市出身)が「衆院解散・総選挙の行方を占う」。小沢一郎代表続投宣言があった直後というタイミングの良さもあり、会場はほぼ満員の盛況であった。マックス・ウェーバーの『職業としての政治』(1919年)を引用して、政治家の重要な資質として、情熱、責任感、判断力の三つを挙げていると話し、西川氏も同意していたように思った。話は面白かったが、筋が一本通っていなくて、しかも起承転結がない。明確な主張点はなかったように感じた。

ただ、解散時期については、「政治は一寸先は闇」であり、解散権を持っている麻生太郎首相を含めて誰にも「分からない」と前置きした上で、

 「麻生首相は任期満了に近づいても必ず解散を行うだろう」

と断言していた。

 「過去に八月の総選挙投票はなかった。このジンクスが破られるかも知れない」

とも予測、というか占った。さまざまな政治状況を分析した上で、

 「民主党を中心とした政権交代の可能性が相当高い」

とも予想した。個人的には民主党政権に期待している西川委員長らしい分析である。さらに、今回の小沢企業献金事件で、国民の間に政治不信が高まり、

 「投票率が下がる」

のが心配と話していた。あえて言わせてもらえば、いずれの断言、占い、予測、予想、心配も外れるだろう。共同通信出身者の個人的な予測が、私の知るかぎり、これまで当たったためしがないからだ。

 もう一方の通信社、時事通信社の田﨑史郎・解説委員長(福井県出身)の近著『政治家失格 なぜ日本の政治はダメなのか』(文春新書)を拾い読みしてみた。タイトルも、サブタイトルも陳腐。しかし、政治家の資質として、具体的に六つを挙げていたのが、面白く、興味が持てたので、ここに記しておく。

 田中角栄のような「風圧」力。最後までやり抜く気迫のことである。竹下登のような「運用」力。梶山静六のような「軍師」力。その時代、時代の大きな問題を提示し、戦略を練る力である。橋本龍太郎、小渕恵三のような「操縦」力。人を適材適所に配する「人を見る目」。小泉純一郎のような「言葉」の力。どんな国にしたいのか、国民に直接語ることのできる力。

ということは、逆に、ここに登場しなかった最近の首相、麻生太郎、福田康夫、安倍晋三、森喜朗、村山富市、羽田孜、細川護煕、宮沢喜一、海部俊樹、宇野宗佑などは、首相の器ではないということを間接的に言っていることになる。ただ、中曽根康弘、佐藤栄作、吉田茂など、長期政権だった首相が出てこないのは、どうしたことだろう。それとも、六つの要件をすべて備えていると言うことだろうか。『政治家失格』をきちんと全部読む必要があるのかも知れない。2009.03.25

 

 

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氷山の一角  「少なくとも」の闇

 WBCで「侍ジャパン」が宿敵韓国に延長戦で勝ち、優勝した。大舞台の、それも大詰め土壇場で頼りになるのは、やっぱりイチローであった。そんな一日であったが、新聞では、片隅で目立たないが、そして、数字を並べただけの味気ないべた記事ではあるが、厳粛になる記事が載っている。世界の死刑執行の統計だ。2008年に処刑されたのは、調査した人権団体、アムネスティによると、全体で2390人。7割が中国である。3月24日付夕刊日経には

 死刑執行2390人/7割超は中国/昨年、アムネスティ調べ

というべた記事である。第一位は、中国の「少なくとも」1718人。第二位はイランのこれまた「少なくとも」346人。三位はサウジアラビア。日本は15人で、北朝鮮もまた「少なくとも」15人。同じ15人でも、計り知れない違いがあると思うのは、厳粛な数字を前にした私の偏見だろうか。また、中国の数字は日本と中国の人口比に換算しても、10倍以上の多さだ。少なくとも、というのは、明らかになっただけでという意味であり、中国にしても北朝鮮にしても、明らかにならなかった「闇」処刑はどのくらいなのだろう。

 「少なくとも」の人数は、それこそ氷山の一角なのだろう。2009.03.24

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運の引き寄せ方 2時間16分の法則 

 日曜日ということで、たまには、いつもの行動パターンを変えようと、若い人たちが集まるちょっとシャレた喫茶店「プロント」(浜松市の遠州鉄道「新浜松駅」高架下のガラス張りの店、同じフロアにはコミュニティー・ラジオ局もある)に入った。入り口に「知的ゴコロくすぐる、ライトなビジネスマガジン『pronto pronto?』」(2009 16号)という無料マガジンがおいてあったので、読んでみた。prontoというのは「すばやく」とか「急速に」という意味らしい。特集が、

 運の引き寄せ方

となっていたからだ。映画監督としても知られる北野武氏の運の引き寄せ方が冒頭に載っているのだが、これがなんと、

 自分の家はもちろん、外の店に入っても、この30年間、毎日、トイレの掃除をして、

 おいらのトイレはいつもピカピカ!

にしていることなんだそうだ。「おいらは、才能があるわけでも努力をしているわけでもないないのに、何をやっても評価されてしまう。それはトイレの掃除のせいかもしれない」と語っているとか。運を引き寄せるというか、ウンコを引き寄せるといべきか、まるで冗談のような話である。

 ところで、私の考えるまじめな運の引き寄せ方というのは、以下の三つだ。

 第一。考えを前向きに明るくする。運が開けるブレイクスルー、突破口はここから始まる。悲観からは何も生まれない。たとえば、「どうせ-うんぬん、かんぬん」というこの「どうせ」は禁句である。せっかく運を呼び込むチャンスなのに、その入り口で運の女神を追い払ってしまう効果しかない。

 第二。たまには、たとえば、土日には、行動パターンを変えてみる。生活のパターンを変えることから、運が開けてくる場合がちょいちょいある。芸術に関心はなくとも、「どうせ、おれには絵は分からない」などと言わずに、美術館や美術展に行ってみる。家に引きこもっていては、なかなか運も向いてこない。

 第三。運のいい人のマネをする。これには実例がある。この特集に載っている例だが、シナリオ作家、三谷幸喜氏が映画『THE有頂天ホテル』を編集した際、ゲン担ぎとして、大ヒット映画『踊る大捜査線THE MOVIE』と『Shall we ダンス? 』の上映時間「2時間16分」をみならった。最初の編集では2時間17分だったものを、なんとか16分にまで、縮めたのだそうだ。お陰で、映画は大ヒットしたという。

 ここまでは運といっても「良運」の口であり、世の中には「悪運」というのもある。しかし、悪運も運のうちだ。そのおすそ分けに預かろうという積極さが、いつしか「幸運」を引き付けることになることを忘れてはいけない。2009.03.22

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テニスのライン際「誤審」  審判員のせいにあらず

 プロテニスを見ていると、相手コートのライン際ぎりぎりを狙って打ったり、打ち返したりして、ラリーをしている。このライン際の審判員の判定が、コート内の「イン」か、それともコート外の「アウト」かで、テニスの勝敗が決まったり、流れを決めたりする。そしてまた、審判員も神ではないから、その「イン」「アウト」の判定を誤ることも時々あるだろう。ところが、誤審は必ずしも審判員個人の技量の未熟さが原因とばかりは言えないというのだ。

 3月22日付静岡新聞の科学欄に、「誤審多いのはアウト判定」というミニニュースが囲み記事風に出ている。見逃しやすいニュースだが、テニスプレーヤー、とりわけプロテニスプレーヤーにはミニどころか、大ニュースであろう。何しろ「テニスで打球がライン際に落ちる時、インと判定されるよりもアウトと判定される時に誤審が(明らかに)多いことを、米カリフォルニア大学の脳科学者らが突き止め、米科学誌に発表した」という内容であるからだ。ライン際に落ちた約4500事例(2007年のウィンブルドン選手権の試合)から、誤審となった約2%にあたる83件について、撮影されたビデオを使い、誤審の原因を詳しく分析した。誤審83例のうち、本当はインなのに、アウトと誤判定したのは70事例。これに対し、その逆の、本当はコートの外「アウト」なのに、「イン」と誤審したのは、わずか13例であった。これは、明らかに有意な差であり、単なる統計的な誤差ではない。ライン際判定は98%と、ほとんどは正しく判定されているわけだが、猛スピードでライン際にテニスボールが落ちる場合、人間の脳は、実際の球の着地位置よりも、球の進行方向(コート外)にあると認識する傾向があり、これが、「アウト」と誤審するのが多い原因らしい。もちろん、着地したとき球が静止すれば、こんな誤審はかぎりなくゼロに近くなるだろう。着地した時、テニスボールが猛スピードで動いていることから、球の飛んでいくより外側に落ちたと審判員の脳は認識するらしい。それでも、例外はあり、アウトなのにインと判定する場合も、誤審全体の15%あり、これは(4500例のうちのわずか13例=0.3%)、脳の働きの個人差というよりも、神ではない審判員のうっかりした「見誤り」であろうと考えたくなる。

ところが、そうでもないのである。人間は、さまざまな作業をする場合、通常の注意力の範囲では20回に一回はミスをするといわれている。これを少なくするに、ダブルチェックする。そうすると、400回に一回のミスに激減する。これを確率で表すと、0.3%ぐらいになる。先ほどの「イン」誤審率=0.3%と同程度になる。とすると、さきほど、「審判員のうっかりした見誤り」と書いたが、それは酷な話であり、一人の審判員の瞬時の判定としては、ダブルチェックにも等しい十分な注意を払った上での誤審であることが分かる。従って、ここらあたりが、人間としての限界なのだろうと考えるのが普通だ。テニスのライン際判定で

 誤審は、審判員の技量未熟のせいではなく、審判員の脳機能のなせる技

ということになる。審判員の技術ではいかんともしがたい、いわば不可抗力なのだ。だから誤審率を改善することは、判定を人間が行う限り、容易ではないだろう。そんなことをいろいろと考えさせる囲み風記事であった。2009.03.22

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ドラマ「黒部の太陽」 背中で演技の香取慎吾親方

 なんのかんの言っても、テレビというのは、やっぱり、ドラマ、ドラマがよくならなければ、話にならない。そんな当たり前のことを思い知らされたのが、香取慎吾主演の

 黒部の太陽(フジテレビ系=テレビ静岡)前編

である。3月21日夜、その前編を見てそう感じた。新聞の記事、文章では、いくらがんばっても、この迫力は出せない。テレビは結局、ドラマが勝負である。下請けのトンネル屋、香取慎吾親方の凄みのある演技が光っている。部下を大事にする。部下と生死をともにする。そのことによって、難事業を工期に間に合わせる。これまでの経験を尊重する。人間を「犠牲」という美名で、人の死を、部下の死をないがしろにしない。これが日本の企業のモラルであった。それはかつて日本には厳然としてあったのだ。昭和三十年代には。それがいつの間にか、なくなってしまった。そこに、今の日本の経済の行き詰まりがあるのではないか、ドラマはそんなことを語りかけようとしているのではないか。明日の後編が楽しみである。

 ところで、このドラマが進行している裏番組で、NHKが「日本の、これから/どうなってしまう? テレビのこれから/最近のテレビはつまらない?/インターネットがあればいい?/視聴者の本音爆発・民放看板番組制作者とNHKのスタジオで討論」

 というやわな番組をやっていたが、ばかばかしくて見ていられなかった。そんな討論をする暇があったら、「黒部の太陽」を見よ、と言いたい。討論して何になる。

 物語そのものは、すでによく知られているように、北アルプスの赤沢岳の真下に黒四ダム建設用の資材を運び込むトンネルを掘りぬくという単純な物語であり、そこにそこで働く人々の愛と生き様をからませているだけのものである。 貧しくとも、誠実に生きる人々の姿は、今はもはやなくなってしまったことを強く印象付けているドラマだ。

 金がすべてという社会、国家のため、社会のためという欺瞞はもういい加減にすべきではないのか。もっと、人間個人を大事にする社会に戻るべきではないのか。ドラマは静かに視聴者に語りかけているように思う。

香取慎吾の演技について、最後に付言すると、慎吾氏自身はどんな思いで、自分のこれまでのイメージとはかなり違う親方役を演じようとしたのだろうかと考えてしまう。慎吾氏が、3月22日付朝日新聞のインタビュー「ズームアップ」(週間TVナビ)で、不屈の精神で難工事に当たる「男を感じさせるのは、背中だ」と気づいて

 背中で演技、勝負した

と語っている。あるいは、それが慎吾の親方役を光らせているのかもしれないと感じた。

 なお、この「黒部の太陽」は木本正次の『黒部の太陽』(毎日新聞連載)が原作。映画化は、三船プロ+石原プロ製作で1968年になされている。慎吾も、このことを十分意識して演技をしていたらしい。40年ぶりのドラマ化である。また、戦前に建設された「黒三ダム」についての小説化については、有名な吉村昭『高熱隋道』が知られている。黒三ダムにかかわった人たちが、戦後のこの黒四ダムづくりにも深くかかわっていたことが、今回のドラマでも少し分かった。関西電力+熊谷組による建設であった。

  後編のラストシーンが印象的である。慎吾親方が、黒四ダムを見下ろしながら

自分に言い聞かせるように、

 「人間の心、意志の力は、自然の力に引けを取らない」

 トンネル屋の意気地だろう。

 

 「黒部の太陽」の次の番組は、よく意味の分からない

 帰ってこさせられた「33分探偵」

をやっていた。あまりよく分からない番組だが、ともかく、5分で片付く推理ドラマを、33分持たせるコメディ・ドラマ。なんとなく、見てしまった。言ってみれば昨年NHKで放送された「サラリーマンNEO」の子ども版という感じで、なかなか面白く、高度なテクニックを駆使していて、つい、これも見てしまった。あえて、ほめるとすれば、ソフィスティケイトされたドラマであり、相当の教養がないと見ていられないコメディだ。最近は、夜の番組に目が話せない。どの局も、実験的で野心的な、あるいは解放区という感じの出し物を競っているようである。2009.03.21

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妖怪道五十三次  努力は人を裏切る

 ゲゲゲの鬼太郎で知られる妖怪漫画家、水木しげるさんの忘れられない箴言に

 「努力は人を裏切ると心得よ」(『水木サンの幸福論』、日経新聞社刊=角川文庫)

というのがある。その心は、たぶん、たとえ、努力が実らなかったとしても悔いが残らないよう、自分の好きなことに打ち込め、ということだろう。苦労人らしい名言だ。正確には、幸福の七カ条として、その第五条に「才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ」である。1922年3月生まれの水木さんは、戦争中にラバウルに出征し、爆撃にあい、左腕を吹き飛ばされ、失った。戦後は、右腕一本で、紙芝居漫画家、それが廃れると、今度は貸本漫画家に転進し、質屋通いをしながら苦しい生活をしのいできた。その間、どんなに努力しても売れずに落伍し、消えていった仲間を多く見ているのだろう。才能があれば、なんでもないことだが、それがないのにその道に飛び込んできて、失敗し、消えていく。そんな無残な姿をたくさん見ているのだろう。そんな水木さんの体験が冒頭の箴言として語らせているように感じるのである。テレビやラジオが登場し、貸本漫画もやがて廃れていくちょうどそんな時期、1960年代初期に、「別冊少年マガジン」に発表した「テレビくん」で講談社児童漫画賞を受賞。ようやく世に出るきっかけを掴んだのだという。時代を見る目があったということだろう。

 世に出るまでに、ざっと20年かかっているが、その間、大量の人間観察スケッチ(線画)を書いて、右腕を磨いている。そんなことをしても、将来役に立つかどうかわからないが、それでも、訓練は怠らなかったところに、この人の気迫が感じられる。

 そうこうしているうちに、貸本まんが『墓場鬼太郎』『寄生人』などを世に問う。それがやがて、ゲゲゲの鬼太郎の誕生につながっていく。これまでに、300体以上の妖怪を全国から集めて、それを歌川広重の東海道五十三次になぞらえて、画業50年、今、常葉美術館(静岡県菊川市)で

 水木しげるの「妖怪道五十三次」展

をやっているというので、見に出かけた。よくぞ、これだけ大量の妖怪を右腕一本で細密に描けたものだとまず、感心した。同時に、よくぞ、これだけの妖怪伝説を全国くまなく集め回って、独創的な絵に仕上げたなと感じた。この分野は水木さんの独壇場、つまり、水木さんは、大勢の中で競争してナンバー・ワンになるのではなく、皆がやらない分野を独自なやり方で開拓し、オンリーワンの第一人者になったのだと気づいた。

 府中(今の静岡市葵区)の宿では、狸が化けたものとされる「大(おお)かむろ」、岡山県の山中の城跡にいたという「貝吹き坊」、「ぬらりひょん」、姫路城に棲んでいたいたという「長壁(おさかべ)」、「溝だし」、小田原の妖怪「小豆婆(あずきばばあ)」の六種類の妖怪を登場させている。

 私の住んでいる「浜松の宿(今の浜松市中区)」では、火煙の妖怪「煙々図(えんえんず)」のみで少し寂しい気がした。

 これだけの妖怪を集めるには、それなりの文献探索も必要だろうと思っていたら、六畳の書斎には、膨大なスクラップブックとともに、分厚い『妖怪学』という本など妖怪本の収集に凝っているようであった。さらに、ラバウル戦地の経験があることから、南方、特にパプア・ニューギニアにも出かけ、仮面、精霊木彫なども相当量買い集めている。これが水木さんの漫画に生かされているのだろう。ただ、誰も(たとえば、国立民族学博物館)これらコレクションについて、評価してくれないと不満げであった。まさに、水木さんが言う「努力は人を裏切ると心得よ」なのだ。

 しかし、それでも、生まれ故郷の鳥取県境港市に、この3月、顕彰像が建立された。妖怪像が並ぶ「水木しげるロード」におかれているという。ブロンズ像の下には

 「なまけ者になりなさい」

と掘り込まれているという(3月9日付静岡新聞)。愉快になまけて幸せになろうという水木さんのメッセージだろう。世の中があまりに競争、競争で慌しくなっているので、一度、なまけ者になって、じっくり、ゆっくり考えてみようではないか、若者よ、それからでも遅くないという願いが感じられる。ただし、一念発起しても、その努力がその本人を裏切ると心得て好きな道を選びなさいということだろう。 2009.03.21

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超多時間  1000時間

 願わくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの望月のころ(西行、新古今和歌集)

 きさらぎ(如月)とは、陰暦二月のことであるが、現行の新暦(太陽暦)で言えば、三月のころに当たるのだろう。きょう、三月二十日(陰暦二月二十四日)は「春分の日」で、静岡県内では、さくらの開花予想日となっている。ただし、望月(満月)とは、いかず、ちょうど半分が欠けた下弦の月である。私も西行のような願いがある。そんな日に、人知れずこの世を去りたい。そんな心境の団塊世代である。まだまだ、西行の心境になるには早い、とも思う。仕事以外の時間を大切に生きたいとは思うが、いろいろ迷う世代かも知れない。

 ところで、こんな計算があるのだが、驚くべきことではないかと、気づいた。

 週休2日(土日休み)、有給休暇年間20日のうち15日間(あと5日間は病気などに備えて取っておく)を、仕事を離れて自由に使える時間として楽しむ。それでも、まだ、年間1000時間の自由に使える「時間資産」がある。その理由はこうだ。月曜日から金曜日までの平日一日の生活で、8時間の仕事、8時間の睡眠、そのほか、通勤+食事+家事に4時間を費やしたとしても、

 平日1日4時間、自由に使える。一週間に換算すると、これが20時間。1年間は50週間だから、20時間×50週間=1000時間

という計算になる。365日-有給休暇年間15日=350日、すなわち50週が働く週間数。

 繰り返すようだが、毎週土日は休み、有給休暇年間15日を楽しみに使ってしまってもまだ、

 年間1000時間もの自由に使える時間がある

ということだ。この超多時間という「時間資産」を、どう使うかで、人生大きく変わるような気がする。1000時間と言えば、長編小説が一冊かける時間に相当するだろう。そんな時間があと10年間、満開の花の下で春死ぬまで、続くとすると、細切れの時間ではあるが、

 超多時間=10000時間

となる。長編小説執筆なら、10冊分に相当する。

 もっとも、あと10年間「毎日が日曜日」だとすると、先の計算で、平日の仕事8時間が丸々自由になるわけだから、土日は休むとして自由に使える

 超多時間=1日12時間の自由時間×5日×50週間=3000時間

と三倍に増加する。ただし、こちらは、細切れ時間ではなく連続した「上質」の時間である。10年間で30000時間にもなる(土日休み、年間無給休暇15日として)。

 蛇足だが、参考のために、付け加えると、現行の時短促進法では、

 政府目標年間平均労働時間=1800時間である。2009.03.20

 

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さくら道  「へそ曲がりな変人」なかりせば

 民放だいいちテレビで「さくら道」を拝見した。「太平洋と日本海を桜でつなごう」を合い言葉に1970年代における国鉄金名線の国鉄バス車掌、佐藤良二さんの物語。名古屋城から、庄川桜の御母袋ダム沿いから金沢・兼六園までのさくら道。兼六園には真弓坂に「佐藤ざくら」の表札のついた桜があり、今も春になると薄紅色の花弁を付ける。テレビドラマは美しすぎて、必ずしも真実を伝えていないような印象を持った。私の結論を言えば、

 美しい「さくら道」も、へそ曲がりな変人なくして実現しなかったであろう

ということである。それにしては、テレビドラマでは、あまりに主人公が善人でありすぎて、リアリティがない。あえて言えば、厳しい言い方だが、失敗作であろう。庄川桜も、兼六園の佐藤桜も知っていただけに残念だ。

 社会的に何事かをなさんとする者は、どこかに変人性、狂気性を持っているものだ。そこを描いてほしかった。単なる教科書に取り上げられた偉人であっては、天国か、地獄にいる佐藤さんも死にきれないだろう。

 偉業は狂気にあり。ましてや美しい偉業であってみれば。

 2009.03.18

 

 

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人間の耳 依然として難問、人間とは何か

 人間とは何か。そのヒントは、ほかの動物や植物にはない発達した大脳にあると考えたくなる。事実、そう主張する日本の高名な脳科学者がいる。高名だから、その人の言うことが正しいとは限らない。とりわけテレビに頻繁に登場して、高名になり、しゃぺ散らかしている脳科学者の言い分は、どうも我田引水ならぬ「我田引脳」と見たほうがいい。

 そんなことを考えさせてくれる囲み記事が最近、いくつかの新聞に掲載された。

 人間の耳/ハエの触覚 音、重力認識機能は同じ  2009年3月12日付日経新聞

 同紙によると、人間の耳とショウジョウバエの触覚は形状が全く違うものの、ともに音と重力を認識する機能を持つ点で同じで、しかも脳に情報を伝える仕組みもよく似ている。東京大学や独ケルン大学の研究グループが発見した。詳しい論文は3月12日付英科学誌「ネイチャー」に掲載された。

 驚くべきことに、人間の聴覚がハエに似ているだけでなく、同研究グループによると、人間の視覚、嗅覚、味覚もハエとよく似ている。とすれば、人間の触覚についても、ハエと似ているのではないか、そんな仮説を立てて研究を始めているらしい。

 もし、人間の触覚もハエと同じとなると、人間とハエは今から6億5000万年前に進化の道筋において分かれたと言われている。となれば、

 人間の脳は、ハエの脳と機能は同じなり。つまり、人間はハエなり

ということになる。人間の発達した大きな脳と、ハエの微小脳が、五感の働きでは、同じ仕組みを持つというのは、驚くべきことではないだろうか。脳のことを考えても、依然として

 人間とは何か

は難問のままだ。

 ただ、こうなると、かつて米SF映画に『蠅男の恐怖』というのがあった。頭がハエで、体は人間という設定である。原作は、ジョルジュ・ランジュランの『蠅』だ。こんなSFも、あながち荒唐無稽とは言えない時代に入ったと言えそうだ。2009.03.18

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二足歩行進化論   綱渡りもできるゴリラ

 週刊紙の見開き写真にはときどき、その分野の研究者もびっくりする「スクープ写真」が掲載されることがある。「週刊文春」2007年10月18日号に、ゴリラが二足歩行しながら綱渡りしている後ろ姿が撮影されており、見出しはこうだ。

 二足歩行進化論 名古屋の動物園で「異端のゴリラ」発見 !  撮影=文春・深野未季

 名古屋市の東山動植物園でのことで、二足歩行するゴリラは、世界的にも大変に珍しい。写真説明によると、オランダ生まれのオーストラリア育ち。名前は「シャバーニ」というゴリラだ。食事時間が近くになると、うれしいのか、綱渡りをする場合が多いという。綱渡りは、綱が渡されている右端からでも、左端からもできるが、なんと、真ん中の垂れ下がった中央からも、ひょいと綱に跳びのり、そのまま起ちあがって二足歩行で、端まで上手にバランスを取りながらたどり着く。サーカス団員でもなければ、人間にはとてもできない芸当だ。オーストラリア時代に、あそびながら覚えたという。このシャバーニ君、人間で言えば10歳くらいの少年で、大人になり、体重が増えてくるとこんな芸当はできなくなるかもしれないという。

 こうした写真を見たり、あるいは全国的にも人気者のレッサー・パンダ「風太」クン(千葉市動物公園)の直立した立ち姿を見たりすると、二足歩行は人間だけの特徴ではないと言いたくなる。一部のサルも二足歩行をするが、食べ物を前足(手)で抱え、料理するための道具があるところまで運ぶために、立って歩いたり走ったりできるよう二足歩行をする様子が外国人研究者に撮影されている。しかも、そうした大人の行動を子どもも見ていて真似をする。はじめはなかなか上手にはできない。しかし、次第に上手に二足歩行し、親のすることを見よう見まねで道具を使ってヤシの実を石で割って中身を取り出し、食べるようになる。(この様子は、2008年3月7日放送のNHK衛星第二で放映された。アマゾン流域一帯に広く分布するフサオマキザルで、実際の撮影地は、ブラジル・ボアビスタであった。この研究自体は、米科学誌「ジオグラフィックス」(2008年3月号)に掲載されている)

 さすがに、ネズミは、二足歩行はできないようだが、実験室内での実験で、素手では届かないところに置いたエサ(ヒマワリの種)を近くに置いてあったくま手で上手に引き寄せる。前足には、くま手を握ることができるよう、人間の親指のような突起があるらしい。理化学研究所脳科学総合研究センターの研究グループが突き止めた。南米アンデス産のネズミー「デグー」(2006年9月17日付産経新聞に道具を使っているネズミの様子の写真が掲載されている)。

 テグーは、新聞によると、17種類の鳴き声で「会話」をするなどの社会性の高いネズミという。

 こうなってくると、人間だけが二足歩行するとか、人間だけが道具を使うとか、人間だけが言語を持ち、会話能力がある、ということは言えなくなってきた。

 さて、それでは、人間とは何か? 人間だけが持つ特徴とは何か?

ますます、分からなくなってきた。2009.03.18

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静岡市のシンボル  あおいの塔

 静岡市の市役所本館を訪れた。スペイン風の青タイルドーム、「あおいの塔」で知られている静岡市のシンボル的な建物。浜松市出身の建築家、中村輿資平氏が昭和初期に設計した。当時の建設費は50万円だったが、ドームなどに予算を掛けて、最終的には65万円と大幅に建設費がかさんだそうだ。中村氏は、その点について、当時、議会で「これくらいのものでないと、後世にこの建物が静岡市のシンボルとして残らない」という趣旨の意見を堂々と述べたらしい。その説明通り、何度かの取り壊し騒動でも生き残り、戦争の災禍をもくぐり抜けて、今日に残ったことを思うと、中村氏の議会での「演説」は結果として正しかったことが、証明されたと言えそうだ。旧清水市との合併後の今も、ここには、ほぼ当時のままの静岡市議会が残されている。一階は、今は市民ギャラリーとして、市民に開放されている。

 先日、NHK「しずおか2009」「静岡けんちく図鑑特集 建築は生きている」(3月15日)には、この旧静岡市役所が紹介されていた。案内役は、常葉学園大学の土屋和男准教授。この番組には

 御前崎灯台(明治7年にリチャード・ヘンリー・ブラントン設計。もともとはレンガ造り)

 三嶋大社近くの看板建築(町の反映を支えた歴史的な建造物)

 下田市にある廻船問屋(家屋全体が漆喰の「なまこ壁」造り)。防火壁と屋内の湿気取りには漆喰は当時としては最適な建築機能材料だった。

 人とのかかわりに配慮した建築として

 ガラス張りで、吹き抜けがある掛川市役所が紹介されていた。平成8年に完成した建築だという。内部は、吹き抜けの中に茶畑をイメージしたモダンな構造になっている。それによって機能的にも、課ごとのしきりを取り払い、開放感のある構造になっている。

 そのほか、石と木材を巧みに利用した芹沢けい介美術館(石水館)も紹介されていた。広い庭のある近代和風建築の古渓荘(富士市=旧富士川町)も。この屋内からは、富士山が眼前に見える絶景が楽しめる。2009.03.17

 

 

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不尽山はいつから「富士山」になったか 観光地ミシュランの三ツ星考

 フランス人、というかヨーロッパの人々に日本へ行ったら、一度は訪れてみたい観光地を三ランク(最高は三ツ星)に評価し、紹介したフランスのガイドブック「ミシュランのギード・ベール」日本版が初めて先日、発行された。最高の三ツ星には、富士山、兼六園、伊勢神宮など56カ所が選ばれた。ミシュランの「ギード・ベール」は、ヨーロッパでは有名なガイドブックだそうだ。

 偶然だが、富士山をいつごろから「富士山」と呼ぶようになったか、という面白そうな講演会が、静岡市内の「グランシップ」で3月15日に開かれた。万葉集を手がかりにしたもので、好天に恵まれたこともあって、出かけてみた。講師は日本大学の梶川信行教授で、万葉集研究で知られる。この講演の結論を先に言ってしまえば、

 平安時代後期

である。「富士」という表記は八世紀初めに出来上がった万葉集(8世紀後半に成立)には見えない。もっぱら、「不尽山」と歌われている。これは、当時、富士山は盛んに噴火を繰り返しており、梶川教授によると、「神代の時代から活動を続ける永遠に命の尽きない山」=不尽山だった。それが、時代が下り、平安後期=古今和歌集(905年)になると、人知れぬ 思ひをつねに 駿河なる 富士の山こそ わが身なりけり、というように「富士」の表記が出てくる。この頃になると、富士山の活動もおさまっており、その秀麗さに関心が集まったようだ。

 それが「日本一の山、富士山」と言われるようになったのは、富士山が間近に見えて、しかも政治の中心が江戸になってからである。とりわけ、東海道名所図絵など、出版の中心も江戸になった1700年前後から富士山は「日本一の山、富士山」と一般にも考えられるようになり、定着したといえそうだ。したがって、

 富士山はいつ生まれたか

という問いの答えは、江戸中期の1700年前後からであるということになる。これが歌集などからの結論である。わずかこの300年なのである。しかし、官人などが扱う行政文書、たとえば、『続日本紀』(789年)には、「富士山の下に灰を雨らせり」という表記があることから、行政的には「富士山」は奈良時代にすでに使われていたというべきであろう。奈良時代の考古学的な遺跡からも「富士」という表記があるらしい。

 富士山の見えない奈良にいた官人は、地元の人たちが美称としていた「富士」を使っていたが、現場に行って歌を読んだ歌人は、火を吹き上げるその姿の荒々しさから「不尽山」を使っていたのではないかというのが私の講演を聞いた感想である。

 このように、万葉集を読むにしても、現代人の感覚で解釈したりすべきではないことがわかる。歌が詠まれたその時代の自然環境や社会環境を十分踏まえて、その上に立って解釈することが大事である。こんなことは当然であると思っていたら、梶川教授によると、万葉集研究の大家である佐佐木信綱氏のような人でも、万葉集評釈で「富士の崇高雄大はよく描かれてをる」と誤った認識の上に評釈している。このことから、結論付けられることは、万葉集など日本の古典文学を読むことは、実は、異文化を理解しようという試みであり、今の日本人の心の源流ではあっても、決してそのまま今と同じものではないということに注意する必要がある。背景やそこに至る歴史を十分知った上で、解釈したり、評釈する必要があるのである。

 田児の浦ゆ うち出でて見れば ま白にそ 不尽の高嶺に 雪は降りける(山部赤人)

 この場合の「田児の浦」とは、現在の静岡県富士市の田子の浦港(富士山の真南、駿河湾の最奥部)の一角だとされている。そこには、この歌碑が建っている。

 

 

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もう一つのアカデミー賞  『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』

 もし仮に、老人として生まれ、やがて、壮年期にまで若返り、青年期から赤ん坊になり、死を迎えるとしたら、その人の人生はどのようなものになるだろうか。その心は同世代の人間と同じで、相応の歳になると恋愛に悩み、結婚も経験する。そんなテーマと取り組んだのが、今回の『おくりびと』で日本で話題になった米アカデミー賞にノミネートされた『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』である。かの『グレート・ギャッツビー』で知られる米小説家、F.スコット・フィッツジェラルドの短編小説の映画化である。老人ホームから人生を始めるベンジャミン(ブラッド・ピット)の目に、自分の人生はどう映るか、という興味があって、映画館で見てみた。

 結論を先に言ってしまえば、人生は何が起こるかわからない、人生はどうにもならないことの積み重ねである、という点では、時間の流れに沿って老いていく普通の人生と変わらない、ただ一つ、時間を逆行する人生のため、通常の人生に比べて、人の死をより多く見なければならないという、辛くもまた数奇な人生となるという点が、通常の人生とは大きく異なる。これを道路上を走る車にたとえれば、上り線、下り線の交通量は同じでも、自分の車と同じ方向に走っている車には、追い越しでもされない限り、なかなか遭遇しない。これに対し、対向車線の車は、次々とやってきて、やがて後ろに消えていく。若返りで時間が逆行する人生はこれと似ている。せっかくの出会いも、長続きがしない。

 そんな関係で、悲劇的なのは、結婚はできても、それを長く続けることができないということだ。映画でもこの悲劇が描かれていて、一方の妻デイジーは通常通り老いていくが、もう片方(映画では夫=ブラッド・ピット)は、若返っていく。時間が立つにつれて、年齢差が開いていく。この映画の結末では、年老いた妻デイジーが、生まれたばかりの赤ちゃんになってしまった夫を抱いて、その死を看取るという悲劇が描かれている。最近の言葉で言えば、不老不死ならまだいいが、アンチ・エイジング(老化防止、若返り)の究極の姿が描かれており、それは悲劇であるということを強く印象付ける物語である。『おくりびと』同様、生と死を、時間という切り口で真正面から取り上げた作品であり、アカデミー賞でもいくつかの部門賞を獲得しているのもうなずける。

 この作品は1920年代に書かれたようだが、時間と空間の考え方を根本的に変えてしまったアインシュタインの相対論の影響を受けているような気がする。

 こうした奇妙な小説としては、ある朝、主人公が虫に変身してしまったことを描いた物語、フランツ・カフカの『変身』や日本では、キューバ危機に影響されて書かれたと考えられる宇宙人家族の物語、三島由紀夫の『美しい星』が思い出される。『左側のない男』もこの範疇に入るだろう。

 また、老人ホームを舞台にしている点では、渡辺淳一の『エ・アロール(それがどうしたの)』と似たところがあろう。

 なお、映画の原作に最新刊のフィッツジェラルド短編『ベンジャミン・バトン 数奇な運命』(永山篤一訳、角川文庫)がある。映画だけでなく、原作を一度読んでみる価値は十分ある。 2009.03.14

 

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盗作医学論文 浜の真砂は尽きるとも

 石川五右衛門の言い方ではないが、浜の真砂が尽きるとも、医学論文の盗作の尽きることはあるまじ、という感じだ。3月6日付朝日新聞の囲み記事に

 盗作医学論文 212本? /データベース検索、著者らに指摘/米チーム

 という見出しで、次のように伝えている。チームは、米国立医学図書館が運営する医学・生命科学の論文データベースを対象に独自に開発したプログラムを使って、盗作が疑われる表現の相似性を調べた。そのうち、著者が異なっていて、盗作が疑われる論文を約9000本を抽出したという。これを基に、実際に論文を読んで、疑われる部分を照らし合わせ、「盗作の可能性がある」と判断されたのは、212本だった。盗作された側は「こんな露骨な盗作は初めて」など厳しい反応が多かったという。一方、「盗作」側は、「データ借用の許可を取らなかったことは謝罪したい」という釈明が目立ったという。こうした電子メールアンケートをきっかけに、掲載誌の編集者による内部調査が行われ、その結果、実際に論文が取り下げられたのは、内部調査を行った83本の論文のうち、約半数の46本だったという。残り半数は、何の対応もとられなかったと記事は伝えている。

 内部調査したのに何の対応も取らなかったということは、問題なしとして無罪であったのか。であれば、盗作と疑われた著者は、疑われたことに対する名誉回復のために、何らかの抗議を論文誌に対して必ずするはずだが、それもなかったということは、盗作したことを事実上認めたことに相当する。著者あるいは編集者がうやむやにして「ほおかぶり」したとしか考えられない。

 こうしたことを考えると、盗作の可能性が疑われた212本のほとんどは、実際にも盗作であると考えられる。盗作論文に比べて、医学分野のでっち上げ、すなわち捏造論文を見つけ出すのは、内部告発があった場合や、明らかに不自然なデータが掲載されていない限り、困難だ。医学分野では、高度の技術を必要とすればするほど、再現実験が難しいからであり、再現性がないからといって、直ちにこれを捏造と断定できないからだ。捏造論文がなぜまかり通るのか、という問題意識で書かれた、あるいはドキュメント映像放送された最近のものに、

『論文捏造』(村松秀、中公新書ラクレ)/『国家を騙した科学者』(李成柱、牧野出版)

がある。前者は最先端の機器が必要な超伝導の物理学論文での捏造を扱ったものである。最先端機器によるデータ収集には再現性がなくても、さまざまなノウハウがあって初めて得られることから直ちに捏造と見なすことが困難なこと、後者は医学論文であり、そもそも再現性が必ずしも万全ではないという事情があることから、内部告発から不正が発覚したことをそれぞれ丁寧にあぶりだしている。

 これに対し、盗作論文については、今回のような手法で発見が可能であることを具体的に示した意義は大きい。盗作の誘惑を抑止する効果があるからだ。

 そもそも、論文の盗作や捏造がなぜ起きるのか。こうした不正は、実力のある大学ほど多いのはなぜか。日本でも東大や大阪大で起きている。競争が激しく、次々と、研究資金を集めて、実験したり、調査したりして論文を書かないと、研究者として、研究社会に生き残れないからだ。

 こうした背景を受けて、最近、

『研究資金獲得法』(塩満典子/室伏きみ子、丸善)

という重宝な本が出版されている。政府の競争的研究資金だけでも約4800億円である。自治体など、あるいは企業などの分も入れると、軽く、5000億円は超えるであろう。この本では、申請の仕方、獲得しやすくするためのノウハウなども掲載されている。研究者には便利なハンドブックであろう。こうした本を活用することで、論文捏造や論文盗作に対する誘惑がいくらかでもなくし、健全な研究社会を維持したいものである。 2009.03.13

 

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勇気ある主張  北「衛星」打ち上げ批判の朝日、毎日社説を叱る

 4月4日から8日の間に、「人工衛星」を運搬するロケットを発射する。北朝鮮は3月12日までに国際海事機関(IMO)にこう通知した。

 これは、3月13日付朝日新聞「時時刻刻」の書き出しであるが、静岡新聞(=共同)も一面トップで、北朝鮮、「衛星」日本海側向け/来月4-8日発射通報「北京、ソウル12日共同」と、「朝鮮中央通信によると」として、伝えている。毎日新聞も「12日の朝鮮中央通信の報道によると」として同様の内容を伝えている。

 こうした中、3月10日付毎日新聞「新聞時評」で、広島市立大学広島平和研究所長の浅井基文氏が「勇気ある主張」をしているのが、目立った。タイトルは

 「北朝鮮の人工衛星」批判社説に疑問

 この中で、浅井氏は、2月27日付毎日新聞社説「人工衛星でも容認できない」、2月28日付朝日新聞社説「『ロケット』は通らない」について、「唖然とした」と書いている。「両社説には北朝鮮に対する嫌悪感があふれ、北朝鮮バッシングの雰囲気が支配する国民感情への迎合を感じる」と総括した上で、感情的にならず、論理的に主張して欲しい、そうすれば北朝鮮にも、ミサイル発射については決議違反だが、平和目的の人工衛星を打ち上げる分には打ち上げる権利が、日本同様、あり、これをやめさせることは、北朝鮮が打ち上げたいとしている以上できないとして、以下のように書いている。

 同氏は、まず、いわゆる宇宙条約により、宇宙の平和利用は「すべての国がいかなる種類の差別もなく(中略)自由に探査し及び利用することができる」(第1条)権利であることを認識すべきであると書いている。日本もその権利に基づき宇宙利用を行っており、北朝鮮もその権利を行使できることは自明だと主張する。自明の根拠は、なにしろ、日本も北朝鮮もこの条約に加盟しているからだろう。

 両社説は、社説の主見出しのような主張をする根拠として、国連安保理決議1718(北朝鮮の核実験を受けて2006年10月に全会一致で決議)の中の「北朝鮮が弾道ミサイル計画に関するすべての活動を停止し、この文脈においてミサイル発射凍結という以前の約束を復活させるよう決定」の文言に抵触するからだとしている。北朝鮮はもちろん、国連に加盟しているから、この全会一致の決議を順守する義務がある。あるが、「弾道ミサイル計画に関するすべての活動」に人工衛星打ち上げまで含むと両社説は解釈し、今回の打ち上げがたとえ人工衛星打ち上げであるとしても決議に違反すると主張している。

 これに対し、浅井氏は、「弾道ミサイル計画に関するすべての活動」という文言は、文言上も通信衛星という平和目的のための人工衛星までは含まないし、また上記の宇宙条約第一条の権利を奪っていると解釈することに「どう見ても無理」があると主張。「そもそも安保理がすべての国家に認められる条約上の権利の行使まで禁じる権限があるとは思えない」との見方も示している。決議は人工衛星の打ち上げも禁じているとまでは言えないとしている。この見解は、中国、ロシアの公式発言と同様だと浅井氏は主張する。

 つまり、浅井氏は、北朝鮮が、事実がどうあれ、人工衛星を打ち上げるとしている以上、そして、そのための手続きを条約に従って事前通告をしている以上、事前に打ち上げを非難したり、打ち上げを強制的に中止させる権利は、(残念ながら)いかなる国連加盟国にもない

ということだろう。この論考を読んで、私が感じたのは、これまでの北朝鮮の核実験、ミサイル発射などさまざまな一連の出来事から国際的に誤解を招きかねないから、せいぜい打ち上げを「自制」するよう要請することぐらいだろうということだった。私も、残念ではあるが、北朝鮮に実験的な通信衛星という「人工衛星」を打ち上げるとしている以上、北朝鮮を非難し、中止を要求することは、平和目的の宇宙条約を否定することになる。同氏も言うように、この条約に基づいて、日本も衛星をロケットで打ち上げている。

 浅井氏は締めくくりで、

 「朝鮮問題は日本の重要な外交課題だ。両紙には、多角的に情報を提供し、理性的な国内世論を喚起する気骨を持ち、冷静な社説を心掛けてほしい」

と苦言を呈しているというか、諭しているというべきか、はっきり言えば、言葉は丁寧だが、叱りつけている。私も浅井氏の意見に賛成で、冷静な社説に心掛けてほしいと思う。

 ただ、北朝鮮も、宇宙条約に加盟していることをいいことに、たくみに条約を盾に、どう喝外交をもてあそぶと、いつかそのツケが自分の身にふりかかり、国を亡ぼす結果を招くということを肝に銘ずるべきであろう。君子たるもの、誤解を招かないよう紛らわしいことをするなという意味の「梨下に冠を正さず」という言葉を北朝鮮政府に申し上げたい。

 ところで、浅井基文氏の経歴が気になるが、

 外務省中国課長/東京大学教養学部教授/日本大学法学部教授

 東京大学法学部政治学科入学

 専門は国際関係論。『集団的自衛権と日本国憲法』(集英社)、『戦争する国しない国』(青木書店)

 であり、それなりの見識をもって発言しているものと判断できる。また、こうした毎日新聞批判を、毎日新聞に掲載したことに対し、私は、いかにも毎日新聞らしい勇気ある決断であったと毎日新聞および論説委員会を評価したい。2009.03.13

 なお、朝日新聞には浅井氏の寄稿あるいは同趣旨の主張は、3月13日現在掲載されていない。二重寄稿になることから、寄稿しなかったのかも知れない。朝日新聞社あるいは論説委員会は、この件については、「黙殺」しているようだ。反論を含め何らかの見解を掲載するべきではないかと思っている。

 なお、静岡新聞社の社説=共同資料は、この件について、3月15日付で

 打ち上げ自体が脅威だ

との主見出しで、「北朝鮮が主張するように、北朝鮮にも宇宙を平和的に利用する権利はある。しかし、問題なのは「衛星」と長距離弾道ミサイルの違いは「弾頭」を登載するか「衛星」を登載するかの違いだけで、日本をはじめ関係国にとっては「打ち上げ」自体が脅威である。衛星打ち上げの成功は長距離弾道ミサイルのの保有と同じ意味を持つ」と主張している。 焦点のミサイル計画部分については「日米韓三カ国は北朝鮮の発射するものがミサイルであれ、「人工衛星」であれ、弾道ミサイル計画の停止を求めた国連安全保障理事会決議1718に違反するとしている」との表現にとどめ、北朝鮮に発射の自制を求めている。同時に、かつて金正日総書記が2000年10月「他国による北朝鮮の衛星打ち上げを条件に、ミサイル開発・輸出を抑制する」との提案をしたことに触れ、六カ国協議などの多国間協議に議題に取り上げ、真剣に討議するよう促している。その中で、打ち上げに伴う危機回避について知恵を絞りたい、と結んでいる。

  せっかくの北側トップの提案なのだから、この際、討議する価値はある。生ぬるいとの意見も出そうだが、残念だが、この程度がせいぜいではないかと思う。 2009.03.15

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シェアハウス  平成長屋は住みよいか

 最近は、大不況でワークシェアリング(これまで一人でこなしてきた仕事を二人で分け合うこと)、カーシェアリング(何人かで一台の車の利用を融通し合うこと)など、「シェア」という言葉が頻繁に使われるようになってきた。もともとは「シェア」という経済用語は、商品などの市場占有率を意味した。ところが、最近では、持ち分、分け前、共有権といった意味に使われている。

 そして、ついに、住居までも「シェア」するシェアハウスが、最近の首都圏では登場している。「ドキュメント 日本の現場 平成長屋の住人たち」(NHK総合2008年12月25日放送。一年後に再取材した映像も追加した再放送番組)では、東京・大塚の事例について紹介していた。家賃と光熱費合計で月3万円ぐらいで入居できる。入居審査はあるが、敷金・礼金なしだという。入居者は若い男女が多い。

 住人の中にはリアカーで豆腐を住宅街に売り歩くアルバイトをする若者がおり、お笑い芸人志望でがんばっている。また二十代のうちに一獲千金を狙って、ネットトレーダーを続ける若者が登場していた。いずれも、窮屈なサラリーマンにはなりたくないようだ。それで、自由を求めて、今は、ベッド一つの我が家で、プライバシーのない生活に甘んじているというような印象だった。一人暮らしの気楽さもある。しかし、それも限界で、数カ月、せいぜい半年でシェアハウスを出て行くという。しかし、出て入っても寂しいのか、ネットトレーダーの若者は一年後にまた、舞い戻ってきていたのには驚いた。ともかく、外出するときは、貴重品は持って出掛けないと盗まれる危険さえありそうな雰囲気だった。これではおちおち、外で仕事もできない。私の率直な感想を言えば、

 いくら安くてもプライバシーがほとんどない生活には、耐えられない

というものだった。まだ、ネットカフェのほうが、プライバシーが守られる分、ましだ。ただ、洗濯や調理はできないので、不便。風呂にも入れないのが辛い。また窮屈で横になれない分、すぐ体を壊しそうだ。2009.03.12

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靴下と下心  アインシュタインの発想

 確かに、人にはなかなか聞きにくい素朴な疑問というものが、日常生活の中にはあるものだ。あらためて聞くのも恥ずかしい。そんな例として、3月11日付中日新聞夕刊「人には聞けない」コーナーに出ていた。

 なぜ、靴の上に履くのに、「靴下」というのだろう

という話である。こういう発想自体が素晴らしいが、さて、なぜだろうと考え込んでしまった。私たちは、あまり感じていないが、重力の向きは上から下に向かっている。だから、地面は一番下であると暗黙のうちに信じている。地面の上に靴があり、その上に靴下を履く。だから、靴下ではなく「靴上」ではないのだろうか。さらに上を「上空」というではないか。しかし、靴下でいいのだという。なぜかというと、物理現象である場合はそれでいいが、靴下のような人間が身に着けるものの場合は、人間中心の物差し、つまり、人間の体の中心(心臓)に向かうほど座標軸上では、下になる。だから、より体の中心に近い肌着を「下着」という。それより体の中心から遠離って着るので「上着」というわけだ。ズボンの下に履く下着を「ズボン下」というのもこれで解決する。

 この伝で行けば、体の最も中心には「下心」があることになる。 コーナー子は、「物差しの当て方を変えてみるのは大切です。科学的にはこれを座標変換と言います。アインシュタインは『物差しの当て方を変えると、物の見方がどう変わる』をつきつめて相対性理論をつくり上げました」と名解説をしていた。

 数千年にわたって当然と思っていた時空に対する物の見方を根本から変え、重力とは時空のひずみであることを示したA.アインシュタインにならって、靴下問題は、おおげさに言えば、人体に関するアインシュタインの発想で解決できたと言ってもいいだろう。

 ただし、この「靴下」話、本当に信じていいのかどうか、疑問に思う人もいるだろう。ただ、身の回りをアインシュタインの発想で見回してみることは、脳の働きを柔軟にする上では役立つことは確かだ。2009.03.12

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歯の掃除教える母ザル  サル社会にも独自文化?

 3月11日付朝日新聞に、子に歯の掃除の仕方について教えている母ザルについて、次のような囲み記事が載っている。

 歯の掃除はこうするの/母ザル、子の前ではゆっくり実演 京大霊長研が撮影

 「カニクイザルの母親が、人の(長い)髪の毛を使って歯を掃除し、大げさなしぐさで子ザルに教えているようだ-。こんなサルの行動の撮影に京都大霊長類研究所の正高信男教授らが成功した。親が子に道具の使い方を教えているとすれば、動物では初めての確認という。10日付米科学誌「プロスワン」に発表した。」

 同様の囲み記事は、少し記事の書き方は異なるものの、同日付静岡新聞(=共同通信)にも掲載されている。大事なことは、管理された動物園での撮影ではなく、タイにすむ野生カニクイザルの群れを調べた結果であるという点だ。道具を使う野生の動物は、これまでにもサル以外、例えばダーウィン・フィンチというキツツキでも見つかっているが、それは、親の行動を見て自然と道具を使うようになったと考えられていた。これに対し、今回の発見では、親が子に積極的に教えているようなのだ。

   もうひとつ大事な点は、道具を使うのは、たいてい、えさを獲得する場合に限られているのに対し、今回は、歯の掃除というえさとは直接関係がないところで、道具の使い方を教えていたことだ。こうなると野生のサル社会にも、人間社会同様、親から子へ独自の文化が伝えられているとさえ、考えたくなる。そういう考え方が正しいかどうか、今後の調査で検証されるだろう。

 ただ、どうして教えているとわかるのかというと、通常では数秒で歯の掃除を終えるのに対し、今回の行動では、母ザルは子どもの目を見ながら、子ザルにもはっきりとわかるように、ゆっくり、しかも大げさに掃除のやり方をしたからだという。子ザルもその様子をじっとみつめていたという。今後の継続調査で、この子ザルも、母親に教えてもらったとおり、歯の掃除をするかどうか、興味深い。

 父ザルは子育てを基本的にはしないが、母ザルと同じ要領で子も歯の掃除をすることが確認されれば、母ザルから子に「文化」が継承されているという仮説も成り立ちそうだ。2009.03.11

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金の成る木  家康のユーモア

 久能山東照宮の家康の墓所は、下から石段を登って、ちょうど1200段目に置かれている。その脇に、樹齢350年とも言われる杉の大木がある。これが「金の成る木」である。家康が家臣に「金の成る木を知っているか」と尋ねると、誰も答えることができなかった。そこで、家康は、おもむろに三本の木を描き、

 よろづ程のよ木/こころざしふか木/しょうじ木

と書き添えたというのである。これを心掛ければ、必ず、富貴が得られると言ったとされている。正直を挙げるなど、いかにもタヌキおやじらしい、ユーモアである。2009.03.10

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百年に一度の魔力   グリーンスパン主義しかり、ポアンカレ予想しかり

 昨年夏以来、「百年に一度」という言葉が、水戸黄門の葵の紋所のついた印篭のような力を持ち、この言葉さえ使えば、使った人の話が単なる言い訳、口実にすぎないのに何でもご無理ごもっともと、通ってしまうという珍現象が起きている。聞いたほうも、なんとなく分かったようにな気になり、煙に巻かれてしまう。そんな効果に悪のりしている経営者は相当いるらしい。

 この言葉は、もともと米連邦準備制度理事会(FRB)のアラン・グリーンスパン前議長の米議会証言で使われたことはよく知られている。しかし、どんな状況で話されたのかは、意外と知られていない。昨秋の米下院での証言の中で、同氏は、

 We are in the midist of a once-in-a century credit tsunami

と発言したのだ。そのまま訳せば「われわれは、百年に一度の金融津波のど真ん中にいる」という意味である。ここから、百年に一度の金融危機、世界同時大不況という「枕言葉」が出てきたのである。かつて市場原理主義者で、「金融の神様」「ウォール街の守護神」とまで言われたグリーンスパン氏も、今では「米国を社会主義化に導いた張本人」と酷評されているという。時代が変われば、人の評価も、こんなに変わるのかという典型的な事例だ。百年に一度の大津波に襲われたことで、同氏は迫り来る金融津波の魔力にのみ込まれてしまったのかも知れない。

 ところで、3月9日、NHK番組「百年の難問はなぜ解けたのか ポアンカレ予想」を見た。再放送のスペシャル番組である。宇宙の形を決めるポアンカレ予想。百年間も解かれなかったポアンカレ予想を、ロシア人天才数学者、グレゴリー・ペレルマン博士が2002年から2003年にかけてネット上にポアンカレ予想が正しいことを証明する論文を発表した。その後、複数の数学者グループが4年間をかけて査読し、チェックしたが、いずれのグループも、確かに、問題を解いたことで一致した。ところが、その後、ペレルマン博士は、勤務していた数学研究所を退職し、証明したことに対するフィールズ賞という数学界最大の名誉も100万ドルという賞金も捨て、社会から姿を消してしまったというのである。百年に一度の大難問を解いたことで、同氏もまた、立ち向かった大難問の魔力にのみ込まれてしまったのかも知れない。

 より突っ込んで言えば、百年に一度ということは、一生に一度あるか、どうかの出来事だが、それが起これば、その人の人生を大きく狂わせてしまうということだろう。このことは、経済、数学の分野に限らない、というのが私の「百年の一度」予想である。

 ポアンカレ予想そのものについては、『ポアンカレ予想』(早川書房、2007年)に詳しい。 2009.03.10

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小惑星、地球かすめる  今、上空にある脅威

 小さく掲載されていても、ドキンとさせられる新聞記事があるものだ。それも全世界にかかわることで、しかも重大な人的被害が出る可能性があるとなれば、見逃せない。そんな記事が3月8日付静岡新聞の囲み記事「GLOBAL FLASH」に出ていた。べた一段で

 「小惑星、地球かすめる」

 ワシントン時事電であるが、7日までに米NASAが発表した。どの程度のかすめかただったのかというと、なんと、これが、今月2日に地球半径(約6000キロ㍍)の12倍強のところを秒速8.8キロ㍍の猛スピードで通過したという。小惑星が月の軌道のかなり外側を通過するということはときどきある。しかし、今回は月軌道までの距離の約五分の一というきわどいところだった。言い換えると、地上から見て、静止衛星軌道の二倍の高さにすぎない。まさに、かすめるという表現がぴったりだろう。しかも、小惑星の大きさは、直径21㍍×47㍍とかなり大きい。地球に対して秒速8.8キロ㍍のスピードと言えば、地球の重力にとらえられる可能性もあった(秒速11キロ㍍以上だと重力を振り切れる)。これがもし、地球に衝突すれば、1908年のシベリア隕石爆発規模の大惨事を引き起こす破壊力を持っていたと推定される。この惨事では、シベリアのほとんどの樹木がなぎ倒されたという。もし、今回、人口密集地帯のヨーロッパ大陸、北米大陸に衝突すれば、大惨事という表現ではすまなかっただろう。

 (地球半径の12倍強ということは、クロスセクションで考えて、半径の二乗比で、1/144の確率で衝突する可能性があった。つまり、今回のようなイベントが百五十回ぐらい起こると、そのうち一回は、中心の地球半径内に小惑星が偶然に通過することになり、地球に大惨事を引き起こすことになるという計算になる。シベリア大惨事から、ちょうど百年立つ。今回のような「かすり」が何年に一度起こるのか知らないが、そろそろ要注意と警戒した方がよさそうだ。もっとも、小惑星とも呼べないような、ごくごく微小な小石程度のものは毎日のように、天空から大気圏に突入していて、一条の流星となって消え、あるいはその一部は地上にまで落ちて来て、隕石として発見されることはよく知られている)

 NASAによると、月軌道の内側を通過する程度にまで地球に接近する可能性がある小惑星は、これまでに約6000個も発見されており、そのうち約千個が、地球に衝突する危険性があると判断されているという。実際に衝突するかどうかについては、小惑星自身が小さく見つけにくい上に、精度の高い軌道要素を決定する必要があり、観測には困難を伴い、小惑星がかなり地球に近づいてからでないと正確な判断はできない。今回も、発見と軌道の確定は「かすめる」数日前だった。

 となると、これら約一千個については、今後、できるだけ常時監視するとともに、観測データの収集と軌道決定も必要になってくる。日本にも、NPO法人日本スペースガード協会(観測センター=岡山県美星町)という組織があり、そうした監視・観測を強化しているのは心強い。

 ただ、衝突することが分かったとしても、衝突自体を確実に回避することは、現時点の科学技術ではほぼ不可能である。したがって、どう避難するかが、大きな課題となる。問題は、衝突が確実になり、また、地球上のどこに落下するのかを正確に予測し、その結果、海洋に衝突すると予測された場合、巨大津波が予想されるので、予測が出てから1、2日の間に海岸から離れて、少なくとも数百メートル級の内陸部の山頂に避難する。地表に衝突すると予測された場合、1、2日で、今回のような小惑星の場合、衝突地点からおおむね百キロメートル以上離れた場所に避難する必要がある。衝突の際に発生する衝撃波で地上にある構築物はほとんど吹き飛ばされるだろう。短期間の避難ではパニックにならないよう、あらかじめ事態を知らせておいて、いざというときに備えて、冷静な避難行動が取れるようにしておく必要がある。 

  地上の醜いいざこざにばかり、気を取られていると、上空からの壊滅的な突然の脅威にさらされていることを忘れそうになる。今回の小惑星は、その脅威に対する備えを怠るなという警告と受け止めたい。なお、時事の記事は、毎日新聞にも二段で掲載されていた。2009.03.09

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本枯節  うま味は形の美にあり

 目に青葉 山ほととぎす 初かつお。

 山口素堂の俳句だが、初かつお、秋口の「戻りかつお」もうまい。そのうまみと香りを凝縮したのが、伝統製法のカビ付けと天日干しを4回ほど繰り返して、水分とにごりの元となる脂肪を抜き取った「本枯節」。「ほんかれぶし」と読む。NHK静岡放送局の「産地発!たべもの一直線」(3月8日)でその製法を紹介していた。焼津産本枯節である。すでに削って売られている、いわゆる「花かつお」の元となるかつお節と、この本枯節とでは、本枯節がかつお節の原型であることは分かったが、製造方法にどのような違いがあるのかは注意して視聴していても、よく分からなかった。このへんをもう少し丁寧に説明した上で、伝統技術を受け継ごうという若者が少なくなった現状を紹介すれば、受け継ぐことの重要性がより説得力をもって視聴者に伝わったように感じた。それにしても、カビに水分を抜き取らせるために、カビ付けをするという、昔の職人の技には感心させられる。四回繰り返すことで、水分含有率は16%にまで下げて、うまみを凝縮させるのだという。

 本枯節は、出来上がった時の形、フォルムも美しいのが特徴のようだ。大き目の「雄節」と小さ目の「雌節」のなんともいえない形の美は確かに、逸品である。それだけに、最初にかつおを三枚におろし、さらに、それを二つ割にする手さばきは修練が要るだろう。元のかつおの姿を大事にしながら、出来上がりの見た目の美しさを大切にする。西欧料理にはなかなか見られない日本料理の大きな特徴でだ。

 うま味は、形の美にあり

そんな印象をもった番組だった。それと、本枯節というのは、何も焼津産だけでなく、土佐産本枯節もあれば、全国ブランドの鹿児島県の枕崎産本枯節もある。それらの違いは何かにも一言ぐらい言及があってもいいのではないか。そうすれば、なお、地元として焼津産の伝統技術を受け継いでいくことの意味が明確になったと思う。ただ、スタジオでおいしい、おいしい、というだけでは、焼津産本枯節の良さは伝わってこない。

  もうひとつ、本枯節は通常のかつお節に比べて、そうとう値段が高いということも、一言触れておくことも良心的な番組としては必要ではないか。どの産地のものも、おおむね、一本=1500円前後である。削り器とかんなもそろえなければならない。

 この番組では、遠州(掛川市)のサツマイモを使った「芋切り干し」も、男性レポーターが紹介していた。一般には、干し芋と言われているものだ。ふかしたサツマイモを手早く皮をむいて、形に切り、天日干しする。私も最近食べたが、なかなかおいしく、お腹もふくれる「お菓子」だ。値段も安く、これぞ、庶民の味というか、お袋の味というか、うまかった。2009.03.08

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映画『おくりびと』を送り出した人々  庄内映画村

 ずっと疑問、というか、不思議に思っていたことがあった。映画『おくりびと』の監督、滝田洋二郎氏は、富山県高岡市(平成の大合併前の旧福野町)出身だし、原作となった『納棺夫日記』の著者、青木新門氏は富山県入善町の出身地なのに、そして、北陸の浄土真宗の風土がテーマに深くかかわっているのに、なぜ、撮影が、山形県庄内地方の鶴岡市や酒田市などで撮影されたのだろうか、不思議だった。

 3月7日午後放送のNHK番組「山形映画村」という「やまがたスペシャル」(2007年6月放送の再放送)をみて、はじめて、その疑問が解けた。山形県鶴岡市には、主として時代劇ロケ向けの「庄内映画村」という株式会社(宇生(うじょう)雅明社長)があり、無償で協力するエキストラ集めや、時代劇セットや会場運営をしてくれる会社があり、現代劇『おくりびと』の撮影でもロケ支援を行うなど、支援態勢が富山県など北陸よりも整っていたからだ。隣の市、酒田市には、「北庄内ロケ実行委員会(通称、酒田ロケ協力隊=世話人、萩原吉郎氏)まであることも、『おくりびと』撮影には都合が良かったのではないか。映画の最後に、協力してくれた人々、組織の名前が延々と出てきたが、その中に「庄内地方のみなさん」とか、「酒田市」などの文字もあったのは、こんな事情があったのだ。庄内地方と言えば、映画にも出てきた最上川下流域であり、そこで主人公がチェロを弾くシーンは印象的であった。浄土真宗の風景と、クラシックのチェロとが、とてもよくマッチして、しっくり溶け合っていたように感じた。監督の手腕であろう。

 この庄内映画村は、2006年7月に設立されたというから、今回の受賞は幸先のよい、また、経営的には決して恵まれているわけでもない運営を軌道に乗せるには格好のタイミングであったであろう。

 思うに、『おくりびと』の受賞を単に喜ぶだけでなく、スクリーンの外にある、こうした地方の人たちの持続的な地道な取り組みがあってこそ、栄冠を勝ち取ることがてきたのだということを忘れてはなるまい。

 地域の活性化を担う庄内映画村とは別に、庄内映画村資料館(松ヶ岡開墾場第五番蚕室)まである。庄内地方の人たちの映画にかける静かなる情熱があればこその資料館であろう。私は、北陸地方の出身だが、この映画を見て感動した。それ以上に感動したのは、そのスクリーンの外にある、あるいはスクリーンを影で支えてきた人々の熱き思いだった。

 もう一つ、マスコミが伝えなかったことに、どのようにして、米アカデミー賞外国語映画部門にエントリーできるのか、ということだ。まず、日本国内において、米アカデミー賞選考委員会からの委嘱を受けて、日本映画制作者連盟が、いくつかの候補作から、日本代表作品として出品を決定する。最近では、『たそがれ清兵衛』(2003年公開)、『それでもボクはやっていない』(2007年公開)などが日本代表作品として出品された。2008年公開の『おくりびと』もこうして代表作品として出品された。これまで毎年出品はしているが、最終審査にノミネートされたのは、最近では『たそがれ清兵衛』と、今回の『おくりびと』のみ。『おくりびと』は初めて受賞の栄冠を勝ち取った。候補作品の中から受賞作を選ぶ最終選考は約6000人の米アカデミー会員の投票によって決まるという。こうした仕組みもある程度知っておくことは、いかに受賞が大変か、ということを知る上で大切なことであろう。2009.03.07

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道具をつくる鳥たち  ガラパゴス島のフィンチ

 道具をつくることができるのは、人間だけである。そう思っている人は多い。自然環境でも実験室でも、チンパンジー類はえさを獲得するために簡単な道具をつくるし、利用もする。ネズミも道具はつくりはしないものの、実験室の環境ではえさを手に入れるために近くに置かれた道具を利用する知恵を持っていることが確かめられている。

 しかし、ガラパゴス島の鳥、フィンチ(キツツキの仲間)は、野生の自然環境の中で、道具を使うだけでなく、幹の中にいるえさとなる虫をほじくり出すために、それにあったように枝をくちばしで巧みに「加工」し、みごとに虫を取り出す。そんな映像が、NHKの衛星第一放送「魅惑の島々 ガラパゴス島」(2001年11月6日午後3時50分)の番組の中に一分間ほど流れていたのを発見した。このときの映像は、後日、NHKから取り寄せて、何度も見たが、自然界にも、道具をつくる鳥がいることに、大変驚いた。

 おおまかに、その映像を解説すると、まず、フィンチは枝を道具として使って幹の中の虫を取り出せそうとするが、なかなかうまくいかない。そこで、その枝を捨て、新たな枝を持ってきて、くちばしで、穴にうまく入るように「加工」し、その後、枝を幹に差し込んで、今度は見事に幼虫をほじくりだした。その間、わずか、一、二分程度だった。

 この映像は、当時の小泉純一郎首相の記者会見が予定より早く終わったため、その穴埋めをするために流されたナレーションも何もない映像だけの20分くらいの番組だった。2009.03.06

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今や資本主義国の救世主、中国  社説は語る

  世界的な経済危機の中、中国は、注目の全国人民代表大会(全人代=国会)を開いた。このことを受けて、日本の各紙は、読売新聞を除いて、一斉に社説を掲載している。

 世界に重い今年の「保八」 朝日新聞/ 中国の内需拡大に期待する 毎日新聞 / 中国の内需拡大に期待、軍事は透明性を 日経新聞/ 国防費の突出を説明せよ 産経新聞 / 世界経済を支える期待も 中日新聞/ 経済の質向上こそ課題 静岡新聞=共同 

各紙、期待の文字が目立つ。静岡新聞も、主見出しにこそ、期待という文字は使っていないものの、冒頭近くの本文で「米国発の金融危機で世界経済が急速に冷え込む中、中国経済の回復は、数少ない効果的な処方せんとして各国から期待される」と、ここでも「期待」という言葉が使われている。一日遅れだが、3月7日付「中国新聞」も社説で、期待という言葉は主見出しでは使わなかったものの、主見出しは「世界に波及する成長を」として、世界の景気後退に少しでも歯止めがかかることを期待したい、と書いている。

 皮肉なことだが、今や共産党が支配する中国は資本主義国の救世主に祭り上げられた感がある。この大不況にもかかわらず、中国は、成長目標を五年連続で「8%前後」とするとしているのだから、期待が膨らむのも無理はない。しかも内需拡大に力を入れるというのだから、中国という巨大市場を狙う欧米各国としては、期待がますます膨らむのは、なおさらだ。 2009.03.06

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米国の「復活」  さらば強欲資本主義

 3月5日付朝日新聞「経済気象台」の「瞬」子も、NHKスペシャル「プーチンのリスト」の番組を見たらしく、番組を題材にして「健全な資本主義」と題したコラムを書いている。少し長いが、引用すると、

「ベルリンの壁と共に、資本主義に対してチェック機能をもっていた社会主義が衰退し、歯止めを失った資本主義の暴走が始まった。今は米国の金融破綻、世界同時不況で急ブレーキがかかっている。シティグループが国の資金で救済され、国有化に近い状態になると共に、GMも国が救済せねば破綻する。(中略)  そのように国に救済してもらわなければ成り立たない「市場経済」の欧米に対比すれば、日本の資本主義ははるかに健全と言える。(中略)  元々社会主義的資本主義とも言われたように、日本の資本主義は社会的な利益や公平感に配慮してきた風土もあったからだろう。世界同時不況からの脱却や、その後の新しい軌道のつくり方において、日本は強欲資本主義のあかを落としながら、その特徴を生かせば今後の世界にとって大切なモデルになる可能性がある。」

 歯止めを失って暴走し始めた結果、「金がすべて、いかに儲けるか」という強慾資本主義が跋扈するようになり、米国では金融が破たんし、それに続く世界同時不況が発生した。ロシアでは、資本主義は国家が統制する資本主義、つまり、国家資本主義へと変質しつつあるというわけである。

 ところで、「歯止めを失った資本主義」と書いているが、この場合の歯止めとは何かについては、「瞬」子は、一言も言及していない。この点について、いろいろ考察してみた。その答えが、現在、NY在住でウォール街にかかわって25年以上になる投資銀行家、神谷(みたに)秀樹氏の

 「強欲資本主義 ウォール街の自爆」(文春新書)

に、明確に書かれていた。同氏によると、「歯止め」とは、

「長い間、金融業に携わったうえで、私自身信条としてきたことがある。それは、『金融マンは実業を営む方たちの脇役に徹するべきだ』ということだ」

 この歯止めを失った強欲資本主義は、神谷氏によると、金融機関などの金融資本家が主役になり、お金がすべて、合法なら何をやってもいい、ずる賢く、あこぎなビジネスと化してしまったと嘆いている。強欲資本主義の牙城がウェール街だという。

 「瞬」子は、強欲資本主義の「あか」とは何か、また、生かすべき強欲資本主義の「特徴」とは何かについては、ふれていない。神谷氏は、

日本の伝統的な価値観である「勤労を重んじ、信用を旨とする」経済社会

を目指すべきであると助言している。ウォール街に長く携わってきた投資銀行家であるだけに示唆に富む指摘であり、これが健全な資本主義のあるべき姿ではないか。こうした倫理観が守られる社会を前提に、「神の見えざる手」は機能する。逆に言えば、こうした価値観がない社会の市場経済は、神もお手上げなのである。今回の経済危機はこのことを如実に示したと言えよう。

 ただ、注意すべきは、こうした経済社会の土壌は、実は、封建社会を経て資本主義を取り入れた社会には受け入れられやすい点だ。「勤労を重んじ、信用を旨とする」倫理観は、封建社会で醸成されるからだ。その点、ロシアはもちろん、米国も歴史的に主従関係を基本とした封建社会を経験していないことから、歯止めのない資本主義に走りやすい。これに対し、競争原理が働く市場経済であっても、日本では武士道精神、西欧では「一人は万人のために、万人は一人のために」などの騎士道精神という封建社会の倫理観がともかくも根付いていて、それが歯止めとなり、資本主義の暴走は起こりにくいと言えるだろう。

なお、「信頼や契約を重視するとか、仕事に対する誠実な態度といったエトス(社会心理的態度)の役割を強調した」論考に、少し古いが、現代ロシア論が専門の袴田茂樹青山学院大教授(当時)の

 1998年9月11日 付「日経」「経済教室」ロシア危機-「低信頼社会」の脆さ露呈」

という論考がある。袴田教授は、「つまり、名誉、信義、義理などを重んじるエトスは契約や信用を重視する近代市場社会の基礎となった」と強調した上で、当時の投機的な金融に振り回されていたロシア危機を打開する経済と国家を再建する道について、次のように述べている。「一般論として、低信頼社会でも一定の条件があれば(長期的な)産業投資は可能だ」として、第一に、「国家権力や行政権力の強力な介入だ。社会主義経済、統制経済、開発主義や国家による産業保護などがこれにあたる」としている。現在の「プーチンのリスト」に象徴される国家資本主義の出現を的確に予測している。

 もう一つ、二十世紀前半まで機能していた社会主義経済がなぜ八〇年代になると衰退し崩壊し始めたのか、という問題に切り込んだ論考に、国際経済学者のポール・クルーグマンMIT教授(当時)の論考、

 1997年9月3日付「日経」「経済教室」-「利己心、市場の勝利導く」

がある。その理由として、技術進歩やグローバル化に対応できなかったためではないとした上で、人々がそのシステムを信奉しなくなったという精神の問題があったと指摘している。市場経済では、信奉しようが、しまいが、市場原理は「神の見えざる手」によって機能するのとは大きな違いであるという。それでは、なぜ社会主義を信奉しなくなったかについては、クルーグマン教授は明言していないが、官僚の賄賂腐敗、共産党員の堕落、密告社会、極端なコネ社会に民衆はうんざりしたからだろう。共産党の一党独裁の先に、すべての人に平等で豊かな生活が保障される共産主義経済が実現するというのはウソだということに国民が気づいたとき、社会主義の崩壊が始まったのだ。その意味で、資本主義システムが社会主義システムより優れていたから、資本主義が勝利したわけではないことに注意すべきであろう。資本主義のシステムは人々が信奉しようがしまいが、機能する。それだけに恐ろしいのは、資本主義の歯止めを失った「強欲資本主義」の野放図な席巻が、「ウォール街の自爆」だけでなく、アメリカという国家を、あるいは世界をも自爆させる結果をもたらすのではないかということだ。今の世界同時大不況は、そんなことを予兆させる。歯止めが利かなくなった場合、強欲資本主義の暴走を食い止める新たなるセーフティーネットが要るのではないか。規制だけでは十分ではない。もっと根本に立ち返らなければ、米国の再生はないのではないか。

 そこで思い出されるのが、かつてマックス・ウェーバーが、資本主義成立の背景として、プロテスタンティズムの倫理を指摘したことだ。今、強欲資本主義が跋扈するアメリカは、一度、高信頼社会の倫理として新教の倫理に立ち返ることが必要ではないか。オバマ新大統領がこのことに気づき、資本主義を自爆の淵から救い出せるかどうか、注目されるところだ。

 ここまでは、競争原理を前提にした論議であったが、これに対し、競争原理そのものに疑問を呈する専門家もいる。経済評論家の内橋克人氏は、最近のNHK番組「その時歴史は動いた/世界恐慌はなぜ起きた」(3月4日放送)に出演し、今回のような未曾有の経済危機の克服の知恵として、

 (地域との)共生の経済  競争原理の市場経済を超えて

という提案をしていた。内橋氏の数年来の持論であり、さらば資本主義というわけだ。しかし、これは、かつてトルストイが夢見た「ユートピア共産主義」につながりかねない幻想、そういって悪ければ、広く世界に通用させるには限界がある。共生経済学については、内橋氏の

『共生の大地 新しい経済学がはじまる』(岩波新書)

に実践例なども紹介されている。

 

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ロシアの「復活」  社会主義 資本主義 国家資本主義

 最近放送されたNHKスペシャル「プーチンのリスト」「プーチンのロシア」を見た。ロシアの大企業に半年間にわたって密着、天国から地獄へ、リーマンショックによる超巨大企業の存亡の危機。原油高騰で稼ぎ出した国家資金50兆円争奪のすさまじい現実を紹介していた。その結果が、国家による強力な経済統制の再来。一方で、厳寒のモスクワ市民の困窮生活。そこから起こるアルコール中毒者の激増。プーチン首相は、民衆を貧困から救い出す手段としてロシア正教を復活、普及させることに力を注いでいた。

 超格差社会の現実から民衆を救い出すには、政治だけでなく、民衆の心をとらえる、政治と密着した宗教が必要なのだ。

 かつて、ロシアの「復活」は、大地、つまり農民から始まるとされていた。レフ・トルストイの「復活」に代表されるように、トルストイ文学に共通するのは、

 歴史を動かすものは、英雄でも、貴族でもない。それは、農民である

という歴史認識であった。だから、貴族に生まれたトルストイにとって、すべてを捨て、一人の無名の農民になることが夢であった。そのためか、彼の墓には、墓碑銘は刻まれていない。トルストイの理想は、一口で言えば、

ユートピア共産主義

であった。同じ宗教の下で複数の家族が自給自足の共同作業しながら生計を立てるというものであった。いわゆるコンミューンである。そんなロシアを求めて、詩人の辻井喬が

 「トルストイの大地 辻井喬のロシア巡礼」(2001年11月24日、NHKハイビジョン放送)

という番組で、ロシアのそこここを訪ねていた。それから8年。

国家資本主義

が現実化しはじめているようだ。今や、

 歴史を動かすものは、農民でも、大富豪でもない。それはプーチンとロシア正教である。

 番組から、そんな印象を強く持った。

 信仰心のない国は不幸だ。しかし、信仰心に頼らざるを得ない国も、これまた不幸と言えるだろう。 2009.03.04

  

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久能山東照宮御遺訓  人の一生

  家康が将軍秀忠に与えた天下政道についての訓戒というのがある。死の一年前の元和元年(1615年)、秀忠の遣いで駿府に赴いた井上主計頭が家康からこの訓戒を授かったと言われている。これが後に、和綴じにして「東照宮御遺訓」として知られるようになった。JR静岡駅南口にその内容の一部が石塔に刻まれている。現代にも通ずる言葉であり、ここに以下の通り、紹介しておきたい。

 人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し急ぐべからず不自由を常と思えば不足なし心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし堪忍は無事長久の基怒は敵と思へ勝事ばかり知りて負ける事を知らざれば害其の身に至る己を責めて人をせむるな及ばざるは過ぎたるよりはまされり李

               家康 慶長八年(1603年)正月十五日

 及ばざるは過ぎたるよりはまされり、というのは慎重居士の家康らしい名言だと思う。とかく現代でも、やり過ぎたり、出しゃばりすぎたりして、失敗することが多い。少し足りないぐらいがちょうどいい、という助言だろう。

 この遺訓が書かれたのは、関ヶ原の戦いから3年後の1603年だから、とりわけ、勝って兜の緒を締めよ、という意味を込めて、正月にあたって文章にして自らを戒めたものであろう。また、この遺訓をしたためた直後の3月に将軍職に就いているから、将軍職としての心得にもしたかったのだろう。しかし、将軍職をわずか2年ですぐに息子、秀忠に譲ったのは、政権がまだまだ安定していない上、豊臣家への遠慮もあり、やり過ぎは危険であると悟ったからかも知れない。ただ、これには今後、将軍職は徳川家が世襲するのだという家康の意志を明確、かつ具体的に天下に知らしめるというしたたかな狙いもあったであろう。

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映画「おくりびと」 死は門である

 後れ馳せながら、アカデミー賞外国語映画部門でオスカーを手にした滝田洋二郎監督の「おくりびと」を見た。いかにも役人という感じの立派な帽子をかぶった仮葬役人が知人の仮葬直前にこの道一筋だった焼き場経験から、語った言葉

死は門である。わたしは門番だ

がとても印象に残った。その門をくぐった先に何があるのか、それは仮葬される人によって、それぞれ違うのだろう。作品は、ヒントになった青木新門氏の『納棺夫日記』を十分そしゃくし、翻案されたストーリーとなっていた。ただ、テーマの死というものを真っ正面から取り上げているという点は変わっていない。

 ただ、偶然にも死を真正面から取り上げた作品が、最近の直木賞にダブル受賞した。

 山本兼一『利休にたずねよ』(PHP研究所) および

 天童荒太『悼む人』(文藝春秋)

いずれの著者も、50歳前後である。

 山本さんの作品は、利休という一人の人間が、なぜ切腹しなければならなくなったのか、時間を逆にたどりながら、利休の心の奥底の解明に挑んでいる。美しいものを守るためには死をもいとわないという利休の心根が伝わってきた。一方の天童さんの作品は、人の死を訪ね歩き、悼む静人の言動を描いている。その旅の中で、悼むという行為と死というものの本質を一端でも見いだそうとする。こちらは、時間をたどるのではなく、空間を旅することで、死の意味にたどり着こうとしているように感じた。

 両書と映画「おくりびと」を読んだり、観たりして、思うのは、主人公の心の奥底を解明するに当たって、膨大な参考文献を読み込み、じっくり時間を掛けて丁寧に取材して、執筆している点である。直木賞受賞の両作品は、特にその感を強くした。

 

 

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『納棺夫日記』とコンビニ

 上記の本について、このブログでも取り上げたが、この中で、著者の青木新門氏は、浄土真宗の風土が根強い北陸でも、僧職でさえも、人の死について真正面から向き合うことがほとんどなくなっていることを嘆いていた(文春文庫増補改訂版の32ページ)。

 この指摘については、北陸の金沢に20年以上暮らした私も、同感である。しかし、その理由について、ついぞ僧職にある人から直接聞くことがなかった。ところが、北陸の地元紙、北國新聞夕刊(2001年11月10日付コラム「野辺の送り」で、真宗大谷派専勝寺の大窪祐宣住職が自分の日常体験から、明快な理由を述べているので、ここに少し長いが、全文を紹介しておきたい。

「私は(大窪氏)は仕事の都合で、京都に部屋を借りています。そこには月に数日寝泊りしますが、実は冷蔵庫やまな板やなべは置いてありません。

 すぐ近くにコンビニが四軒もあって、インスタント製品だけでなく、焼き魚、鶏の空揚げ、小芋の煮物、酢の物、ウサギの形に切ったリンゴまで、何時でも手軽に買えるからです。正にコンビニが私の冷蔵庫? どれもこれも、もう食べるばかりになった奇麗な調理品で、ひとつも自分の手を汚す心配がありません。

 「便利」とは手間が省けること。でもだから、生きるために何をしているのかという人間の「業(ごう)」がだんだん見えにくくなってきました。これまで、手を血に染めて料理することの辛さや悲しさの中に、むしろ、生きていることの重さを実感してきたのでしょう。便利になって、逆に、生きることを軽く思ってしまわないかと考えさせられます。」

 ほんの四、五十年前までは、自宅死がほとんどで、しかも葬儀は遺族だけで行っていた。だから、こどもも「死」とはどんなものか、具体的に知り、死を恐れ敬う気持ちもはぐくまれた。

 それが最近では、医療が発達して病気をしても長生きできるようになり、病院死がほとんどだ。お金さえあれば、その後の葬儀の手配も、僧侶の手配も、すべて葬儀屋が取り仕切ってくれる。最近では厚生労働省認定の葬祭ディレクターまで登場し、葬祭ビジネスという便利な商売が繁盛している。こうなると、何一つ手を汚さないため、死というものが実感として感じられなくなる。便利さの負の側面だ。死が便利さのお陰で遺族から隠されてしまうのである。僧職だけでなく、遺族も死について、近親者という厳然たる事実を前に、深々と死について、思いをめぐらすこともほとんどなくなった。葬儀のスケジュールも葬儀屋任せとなれば、それも仕方がない。すべては、形式どおり、滞りなく進行する。

 ここに、死と真正面から向き合いにくい原因がある。葬儀屋が悪いのではない。コンビニが悪いのでもない。便利さに安住しようとする人間の心の弱さにあるのではないか。今一度、便利な現代にあって、何のための便利さなのか、思いをめぐらすことが必要ではないか。

 それと、老年医学にたずさわる医師も、その存在意義をかけて、生だけにこだわらず、生きているものはいつしか死にいたるものだという厳粛な摂理を真摯に受け入れ、死を真正面から取り上げた患者学をつくりあげることが、今、必要ではないか。

 

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もの思う鳥たち 3 ダーウィン進化論の再考

上記タイトルの著書『もの思う鳥たち』の訳者後記で、次のように述べていることも、注意すべきことであろう。

 本書で主張されているのは、要するに鳥たちは精密機械のようなものとは根本的に違って、それぞれが個性を持っており、刻々と変化する環境にひたすら翻弄されるのではなく、それ(環境)を積極的に利用するためにすぐれた能力を発揮するなど、きわめて主体的な生活を送っているということです。

 さらに、訳者の笠原敏雄氏は、次のようにも、動物には主体性がないとする考え方について、批判しています。

 つまり、わが国の研究者の中でも、(人間以外の)動物を精密機械と見なす世界的な定説(すなわち権威)への従属願望という無意識的な誘惑も手伝って、動物には主体性はないとする考えかたが、ふしぎなことにいぜんとして大勢を占めているということです。

 私も、進化の結果である現在の環境適応は、鳥たちの主体性によるものであることは間違いないと考えています。同時に、長い進化の歴史においても、動物たちの主体性によって環境に適した体のつくりが成し遂げられてきたものであると確信している。つまり、突然変異が親から子、そして、子から孫へと受け継がれ、その結果、環境に適した、つまり、自然淘汰の結果、現在の動物や人間がこの地球上に繁栄しているとは考えていない。ダーウィンが言うような、そんな悠長なことでは、種はその間に環境適応に間に合わず、絶滅してしまっていると考える。

 変わるときが来たら、動物たちは、それまでに溜め込んだ突然変異を総動員して、多重フィードバックという仕組みを活用して、身体のつくり、デザインを環境に適応できるように不可逆的に変更し、種全体が一斉に変わるのである。

 この場合の体内で起こる多重フィードバックについては、金子勝/児玉龍彦著

『逆システム学』(岩波新書)

の第二章=制度の束と多重フィードバックに詳しく説明されている。

 この考え方から、私は

 なぜ生物には心が宿る必要があったのか

という課題に取り組んでいる。この場合の「心」とは、選択の余地がある場合、生き残る確立を高めるために自らの判断でその中の一つを選んで行動できる仕組みであり、この意味の「心」には、判断を下すため、周りから「情報」を得て、それを操作する機能が備わっていることが必須である。この意味では、鳥や人間だけでなく、単細胞にも「心」はある。こうした仕組みや機能である「心」を、物質やエネルギーは持っておらず、動物や植物にはある個性もない。個性は、「心」があって初めて出てくる。

 これに対し、物質やエネルギーは、運動方程式やエネルギー法則によって一律に規定されており、個性の入り込む余地はない。しかし、生物には、「情報」を取り込むことにより、個性も主体性も持ちうるのである。これが進化の原動力であろうと考えている。

 ダーウィンの進化のメカニズムは、生命の発生直後、今から数十億年前では、あるいは有効だったかもしれない。しかし、だんだん時間が経過するにつれて、突然変異が体内に蓄積され、かつ、身体の仕組みも複雑になるにつれ、進化のメカニズムも、単純なダーウィンの進化論的なメカニズムから、多重フィードバック機構が備わるなどして、変化してきたと考えられないか。進化のメカニズムも、生物が進化するにつれて、変化してきたのではないか。

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もの思う鳥たち 2  奇跡の鳥、ライチョウ

 日本列島がまだ大陸とつながっていた時期、氷河期とともに列島にやってきたライチョウ。氷河期が終わろうとしていた時期に、一部のライチョウは、北方に移動せず日本列島の高山、とりわけ立山などの北アルプスの山頂部に移動することで氷河期後を生き延びてきた。そんな奇跡の生きた化石、立山のライチョウについて、一年間にわたって、いかに四季の移り変わりという環境に適応して生き延びているか、その生態を撮影したNHK番組「奇跡の鳥ライチョウ」(2009年3月1日再放送)を見た。人があまり寄り付かない高山に生息することから、ライチョウはあまり人を恐れない。従って、間近で撮影することができたと撮影に当たった若いディレクターは語っていた。

 そんな状況の中で放送された、オス同士の縄張り争い、子育て映像を見ると、「鳥類たちの知られざる人間性」というサブタイトルのついた先の『もの思う鳥たち』の著者の主張がよく理解できた。つまり、鳥は、あらかじめプログラムされた精巧な機械に過ぎない。従って、刺激に対して反射的に反応しているだけであり、自ら、状況に応じて判断したりするということはないという偏見は間違いであることがよく分かる。

 たとえば、天敵ともいえるハヤブサの仲間が上空に現れると、6羽の子育て中の子どもたちに、特殊な鳴き声で親鳥が合図する。すると、山肌に餌探しで夢中になり散らばっていた小鳥たちは一斉に、身を硬くして身動き一つしなくなり、警戒態勢に入る。これなどは、ある刺激に対して、一定の定められた反応をしているだけという説明では理解できない。刺激がなくても、自ら反応し、身を守る態勢に入るからだ。しかも、母親鳥だけでなく、子どもたちも守るという、人間と同様の「人間性」が観察される。そこには母鳥の状況に応じた的確な判断があり、親鳥と子どもたちとの間にコミュニケーションが取れていることを十分うかがわせる観察映像であった。

 著書の帯にもあるとおり、「鳥はこんなにも人間に近い「知性」と「感情」を持っていた!」ということがよく分かる。これをもって擬人化であるとして、非難する研究者のいるというが、それは遠くからの観察からの観念論であると感じた。この番組からは、遠くからの観察では分からない、鳥類たちの知られざる人間性、というか、鳥と人間の「心の世界」には、人間と機械ほどの差はないことが理解できる。

 結論を言えば、鳥たちも、人間同様、環境に対して自ら判断し、選択したりして、主体性を持って生きている。「主体性の進化論」もこうした観点から考えるべきではないか。ダーウィンの進化論、それに続くネオ・ダーウィニズムは、当時の物理学の発見(個性や心を持たない物質やエネルギーに関する発見)に刺激された「非主体性の進化論」である。当時の時代背景を色濃く反映したものであり、ダーウィンの進化論は、この点で基本的に間違いではないか、という印象を強く持った。

 動物、あるいは植物も、物質やエネルギーとは異なり、個性と主体性を持って、環境に働きかけて進化してきた。その意味では、

 変わるべき時が来たら、種は一斉に短時間に変わるという

 今西錦司氏の「主体性の進化論」

は正しい。その時が来たら個体それぞれが、溜め込んだ突然変異を総動員して、体内の多重フィードバックを通じて、主体的に環境に適応する。ダーウィンが『種の起源』で言うように、動物たちは単に、環境に振り回される存在ではない。環境適応では、日本の高山のライチョウは、夏と冬では、体の羽の色が天敵に狙われにくいように変わるが、これに対し、季節の移り変わりのほとんどない北方のシベリアに氷河期の終わりとともに移動してしていった雷鳥には、こうした体色の変化はないのではないか。年中、白色ではないかと想像する。こうした日本の高山のライチョウと、シベリアのライチョウの違いは、ライチョウ自身の、多重フィードバックという主体的な適応によってなされたものではないか。

 撮影に当たった若いディレクターは、最初はライチョウといっても「遠い存在」であったが、撮影が進むにつれ、鳥たちにも人間同様の感情があることに感動したという趣旨の感想を述べていたのが印象的であった。

 この番組には、立山のライチョウの生態を30年以上にわたって調査している富山雷鳥研究会のメンバーも登場していた。雷鳥は、現在、全国の高山地帯に推定で3000羽ぐらいいるという。そのうち、立山にはオス、メスあわせて約50羽が生息しているとのことである。天敵に狙われたりしてこれ以上減れば、絶滅危惧種になるぎりぎりの生息数であろう。

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