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2009年2月

疑わしきは裁判官の利益に   有罪率99.9%は語る

 周防正行監督の映画

「それでもボクはやっていない」(2007年1月公開) 

を見て、感じたことを正直に言えば、

「疑わしきは裁判官の利益に」

という裁判の現実である。この映画は痴漢冤罪をテーマにしたものである。身に覚えがなくても、被告となってしまった以上は、無実を示す確実な証拠、確証が要る。確証がなければ、有罪となる。有罪が疑わしくても、検察官の言い分がそのまま、裁判官は踏襲するからだ。なにしろ、起訴された事件の99.9%が有罪となっている事実があり、裁判官も人の子、疑わしいからといって、無罪を言い渡すには勇気がいる。上級審で有罪になれば、そこはやはり、出世の妨げになるからだ。変人裁判官と見られかねないという不安もある。

 ところが痴漢事件の場合、無実を証明する確実な証拠、物証が乏しく、立証は難しい。そこに持ってきて、「男は痴漢をするもの、女性があえて痴漢にあったと訴えるのはよほどのことであり、それでも訴えるということは、その訴えは真実であるに違いない」と世間も、裁判官も頭から信じる。これでは、いくら

「疑わしきは被告の利益に」

という法理で被告の利益を守ろうとしても、法理の力はかすんでしまう。

つまり、「それでもボクはやっていない」と主張するだけでは、無罪を勝ち取れないのである。だから、痴漢の場合、被告にならないように、満員電車には乗らないという自衛手段をまず、世の男性はとるべきだ。

 それと、裁判官の意識だけでなく、いまだに、検察官・警察官は、痴漢事件のように証拠が不十分な場合、

「疑わしきは自白重視で」

ということが、取り調べで、まかり通っていることも、冤罪を生んでいる。「お前がやったのに違いない」というはなからの思い込みから強引な取調べが行われるようになる。

 このことが、富山県の強姦冤罪事件を引き起こした原因となっている。この場合は、検察官の「疑わしきは自白重視で」という意識と、裁判官の「疑わしきは裁判官の利益に」と、被告の利益を図るべき弁護士も、はなから「依頼人は強姦をやったにちがいない」ときめつけていたことが、せっかくの「疑わしきは被告の利益に」という法理も無力化してしまい、悲劇を生んだといえそうだ。

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「納棺夫日記」と老年医学

 米アカデミー賞の外国語映画賞に「おくりびと」が選ばれたというので、そのきっかけとなった原作本『納棺夫日記』(文春文庫)を読んだ。もともと1993年に出版されたものだ。当時は、脳死問題、臨死体験がマスコミで大きく取り上げられていた時期だから、この本について、誰かが脳死問題とからめて、取り上げるべき本であったと痛感した。医学担当の小生もこの本の存在に気付かなかったのは、不覚と言わざるを得ない。本の著者は、富山県入善町(現・富山市)出身の青木新門氏であり、当時、小生は金沢在住だったから、 知らなかったというのは、大変に不見識と言われても仕方がない。

 小生は、老年医学の存在意義は、患者をピンピンにすることではなく、命あるものは必ず滅び行くものであるという厳然たる事実を真っ正面から「受け止め、死」と向き合うことであり、それがほかの老年医学にはない、基本概念を生む。

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『もの思う鳥たち 』   主体性の進化論

 このタイトルのついた近著(日本教文社発行)を何気なく手に取り、面白そうだと購入し、読んでみた。読んで、キリスト教圏の欧米では

 なぜ、今西錦司の『主体性の進化論』が受け入れられないか、

という理由がようやく分かった。人間以外の動物や植物には、物を思ったり、感情を持ったり、合理的にものを考えたり、ましてやそれらのことを主体的に行うなどということはないという偏見があるからだ。上記本のサブタイトルは「鳥類の知られざる人間性」となっており、歴とした米社会心理学者が書いた科学書である。この本の著者、セオドア・ゼノフォン・バーバー氏は、勇気を持って、擬人化という人間中心主義という陥りやすい陥穽をたくみに回避しながら、この偏見に挑み、慎重に鳥たちの「心の世界」を解明しようとしたのである。鳥たちは、あらかじめプログラムされたロボットのように、機械的に環境に対応、あるいは振り回されているのではなく、環境に適応するために臨機応変に知恵を出し、主体的に生きている。

 私の結論を言えば、鳥たちにも主体性をもって変化する環境にたくみに適応しようという主体性があるということを読者に納得させるという、その目的はおおむね成功しているように思う。鳥たちにも主体性があり、そのことが、数億年の歳月を生き延びてきた原動力であろう。

 主体的に環境にかかわることで、肉体的にも自ら「変わるべきときが来たら、種全体が一斉に環境に適応するために」、親から子へ、子から孫への突然変異の遺伝というダーウィン説のようなのんきな仕組みなど待たずに、それまで溜め込んできた突然変異を総動員して、体内の多重フィードバックを通して、一斉に変わるという新「主体性の進化論」の成立基盤が、この本にはあり、大変に興味を持った。

 キリスト教の教えでは、人間以外の動物には主体性というものはなく、精巧に出来た機械仕掛けで動くロボットのような存在である。これに対して、人間だけはその精神はもちろん肉体も神が神に似せて創ったものであり、自ら考え、変化する環境に積極的に働きかけることのできる主体性がある。だから、動物の行動を擬人化することはキリスト教圏の欧米では非科学的であり、タブーなのである。逆に、西欧では人間をあらかじめプログラムされた機械として論じたり、解釈したりすることはタブーとなっているようだ。人間機械論はタブー。二足歩行の人間そっくりのロボットがキリスト教圏の欧米ではほとんど研究されず、そうしたタブーのない日本で成功しているのもこうした背景があろう。

 以上、まとめると、

 聖書は言う。人間は神が創った。そして、C.ダーウィンは言う。人間は自然(淘汰)が造った。そして、現代分子生物学は言う。人間はDNAが創った。そして最後に、人間は、悠久の過去に存在した動物や植物の主体性が創った。

                  

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「科学と社会」について

「左側のない男」という不思議なタイトルを読んで、すぐ気づいたのは、左目がない人のことかな、ということでした。しかし、左目がなくても、前後左右いずれも見ることはできるので、脳にかかわることが、こうした人間を生み出しているのではないか、と想像しました。

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左側のない不思議な世界に、ようこそ。

 左側のない男。なんとも不思議なタイトルです。しかし、現実に、この地球上の人間には、両眼が正常なのに、左側を認知できない、そのような女性、男性がいます。ただし、本人は、夢にもそのことに気付いていない。鏡の真正面に座ってもらっても、やはり、本人は左側が存在することに気付かない。

 つまり、光を感じることと、見えることとは別、そんな世界です。光を感じるのは眼の構造に関係します。しかし、見えることには脳の機能が関係します。

 そんな男性、女性が見るこの世界とはどんなものなのでしょうか。そんな不思議な世界を想像しながら、正常な世界をのぞいてみましょう。

 「科学と社会」をテーマに、常識を疑うブログです。

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